大倉幕府(ookura-bakufu) の 歴 史


その一
『長元3年(1030年)源 頼朝の六代祖にあたる源 頼信よりのぶとその子頼義よりよしが、 上総かずさ
(房総半島の中央部)で起こった「平 忠常の乱」を鎮めるため出征、任を果たし、
その功績で頼義は相模守になり、この大倉に館を設け、平 直方の娘と結婚した。』
《「保暦間記」より》


その二
新亭大倉幕府に平 広常の宅から移徒

治承4年(1180年)10月、
大庭景親を奉行としてこの所・大倉の地に営作せしめ、
12月に新亭が落成して、平 広常の宅から移徒する。
(構造は) 寝殿造(平屋造)で対屋などもあった。
建造物の名称として「大御所」、「小御所」、「北向御所」、「兵御所」、「常御所」等もあった。

《「吾妻鏡」治承4年(1180年)10月の条より》


その三
この建造物は、火災に度々遇ったが、其都度、程なく新築されたもよう。以下例示す。


◎『【 建久 2年 (1191年) 3月4日、の 火 災】

3月4日 壬子 陰、南風烈し
  丑の刻小町大路の辺失火す。江間殿・相模の守・村上判官代・比企右衛門の尉・同籐
  内・佐々木の三郎・昌寛法橋・新田の四郎・工藤の小次郎・佐貫の四郎已下の人屋数
  十宇焼亡す。余炎飛ぶが如くして鶴岡馬場本の塔婆に移る。この間幕府同じく災す。
  則ちまた若宮の神殿・廻廊・経所等悉く以て灰燼と化す。


《「吾妻鏡」建久2年3月4日の条 より》
【 建保 元年 (1213年) 5月2日、の 和 田 の 乱 】

5月2日 壬寅 陰
  …省略…
  御所に於いて敢えて警衛の備え無し。然れども両客の告げに依って、尼御台所並
  びに御台所等、営中を去り北御門を出て、鶴岡別当坊に渡御すと。
  申の刻、和田左衛門の尉義盛伴党を率い、忽ち将軍の幕下を襲う。  …省略…
  皆東西より起こる。百五十の軍勢を三手に相分ち、先ず幕府の南門並びに
  相州の御第(小町の上)西北両門を囲む。  …省略…
  御所の西南政所の前に於いて、御家人等これを支え合戦数返に及ぶなり。  …省略…
  酉の刻、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かせ箭を飛ばす。
  而るに朝夷名の三郎義秀惣門を破り、南庭に乱入し、籠もる所の御家人等を攻撃す。
  剰え火を御所に放ち、郭内室屋一宇残らず焼亡す。
  これに依って将軍家右大将軍家の法華堂に入御す。火災を遁れ御う


《「吾妻鏡」建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉条 より》

その四
『大蔵幕府は、治承4年12月〜嘉禄元年12月まで、46年間ここにあった。