宇津宮の名前の由来

宇津宮の名前は、源 頼朝の幕府重臣の一人、宇都宮朝綱が此処に屋敷を構えていたことに由来する。

【人物紹介】
宇都宮朝綱 (うつのみや ともつな)      1122〜1204(保安3〜元久元)
鎌倉初期の武士。父は八田宗綱。鳥羽院武者所。後白河院北面。左衛門尉。宇都宮氏は   下野国の豪族で、家伝では藤原鎌足の後裔、関白道兼の流れを汲み、道兼の曾孫宗円が   前九年の役(1051)の時下野に下向し、宇都宮座主となったのに始まるという。
 宗円の孫・朝綱は平氏に属し、後に頼朝の挙兵に加わり、元暦元年(1184)5月、
 宇都宮(二荒山神社)社務職を安堵されるとともに、伊賀国壬生野卿地頭職を給与された。   文治5年(1189) 奥州合戦に従軍。翌11月上洛。
建久5年(1194)5月、下野国司行房によって公田百余町の掠領を訴えられ、土佐国に
配流された。

然し、後赦免されて宇都宮検校となり、ついで後白河院北面の武士として京都にあり、 さらに宇都宮に戻って
 頼朝に従い、元久元年(1204)8月6日・83歳で没した。
 宇都宮氏発展の基礎を築いた朝綱以来、宇都宮氏は有力御家人の一人として代々鎌倉で重きをなし
 伊予、美濃の守護に任ぜられ、また評定衆、引付衆にれっした。
 蹴鞠、歌道にすぐれた家柄で、とくに和歌は京風の歌壇「宇都宮歌壇」として数多くの歌人を輩出した。
 さらに弘安6年(1283)に景綱が制定した「宇都宮家式条」は、もっとも古い武家家伝として注目されている。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による

宇 津 宮 氏 系 図