嘉禄元年(1225年)12月、大倉から若宮大路周辺の宇都宮辻子あたりへと御所が移転する。
これを宇都宮辻子御所と呼ぶ。
宇津宮辻子幕府移転 にかんする『吾妻鏡』における記述・・・
【1】御所移転案を群議し事始の日時を決定する。・・・
《嘉禄元年(1225年)10月大 3日 庚寅 》 の条
嘉禄元年(1225年)10月大 3日 庚寅 、雨降る。 相州・武州、御所に参りたまふ。
当御所を宇都宮辻子に移さるべきの由、その沙汰あり。
また若宮大路の東頬に建てらるべきかの旨、同じく群議に及ぶと云々。
《嘉禄元年(1225年)10月大 4日 辛卯 》 の条
嘉禄元年(1225年)10月大 4日 辛卯 、霄る。 相州・武州、人々を相具して、宇都宮辻子ならびに
若宮大路等を巡検せしめて、始めて丈尺を打たる。 …省略…。
事始以下の日時の事、国道(安倍)朝臣に尋ね問はる。 …省略…。
12月5日を用うべきの旨、治定せしめをはんぬ。 …以下省略…。
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《 文 説 》
嘉禄元年(1225年)10月大 3日
御所を大倉から若宮大路周辺の宇都宮辻子あたりへと移転する議論が行われた。
(辻子と言うのは大路よりも規模の小さい道のことを指す。)
嘉禄元年(1225年)10月大 4日
時房・泰時ら宇都宮辻子と若宮大路を巡検し、丈尺を打つ。 事始の日時を定む。
(二階堂道行が奉行して、安倍朝臣に尋ね、「10月13日〜12月5日」との返事であつたが、「22日は政子の百ケ日であるので。
そのご仏事の以後に事始めすることで、12月5日を事始日とさだめた。)
【2】御所地選定の会議をかさね、若宮大路西方に決定する。・・・
《嘉禄元年(1225年)10月大19日 丙午 》 の条
嘉禄元年(1225年)10月大19日 丙午 霄る。 相州の御亭において、相州巳下御所の御地定めあり。
小路[宇都宮辻子]東西の間。いづけの方を用いらるべきやの事、人々の意見区々なり。 …省略…。
いまだ治定せず。御占を行はるべしと云々。
《嘉禄元年(1225年)10月大20日 丁未 》 の条
嘉禄元年(1225年)10月大20日 丁未 、晴る。 相州・武州等、参会せしめたまふ。 御所地の事、
重ねて御沙汰あり。 …省略…
陰陽師を召され、法華堂下の地をもって初一となし、若宮大路をもって第二となし、…省略…。
若宮大路は四神相応の勝地というべきなり。西は大路南行し、東に河あり。北は鶴岳あり。南は海水を湛へ、
池沼に准ずべしと云々。 これによって、この地を用いらるべき旨、治定しおわんぬ。…以下省略…。
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《 文 説 》
嘉禄元年(1225年)10月大19日
御所の移転先について、宇都宮辻子の東と西のいずれを採用するかで、人々の意見が分かれた。
(この条によると、宇都宮辻子は南北に走る道であり、移転先はその東側か西側であつたと理解する。)
嘉禄元年(1225年)10月大20日
御所移転先は法華堂の下と若宮大路周辺の案があったが、議論の結果 若宮大路周辺に決定する。
(宇都宮辻子への移転は決定するが、東西いずれにするかは決定していない。宇都宮辻子が南北に走る道であつたと確認できる。
現在の道なりから考えれば、宇都宮稲荷から南北に通じる道が、宇都宮辻子であったと想定できる。)
【3】新御所の木作始・上棟する。・・・
《嘉禄元年(1225年)11月小 7日 甲子 》 の条
嘉禄元年(1225年)11月小 7日 甲子 晴る。 新御所の木作始なり。
《嘉禄元年(1225年)11月小17日 甲戌 》 の条
嘉禄元年(1225年)11月小17日 甲戌 。 今夕より新御所の祭等これを行はる。 …以下省略…。
《嘉禄元年(1225年)12月大 5日 辛卯 》 の条
嘉禄元年(1225年)12月大 5日 辛卯 。 新御所の上棟なり。 …省略…。
女房大納言局の宿所の地において、同じく上棟の儀これありと云々。
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《 文 説 》
嘉禄元年(1225年)11月小 7日、に工事が始まる。
嘉禄元年(1225年)11月小17日、新御所の祭等これを行はる。
(泰時の亭において、連日造営中の犯土・方位の議論、。
嘉禄元年(1225年)12月大 5日、 新御所の上棟を行はる。
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