京都の堀川の館にいる源 義経を夜襲をかけたのは、土佐坊昌俊とその一族であった。 東鑑(吾妻鏡)の文治元年(1184年)十月の条において次のように記録している。 「この義経追討にあたって多くの者達は辞退したが、土佐坊昌俊は進んで其の役を受けると申し出たので 頼朝の御感をえた。義経誅伐の出発の時、頼朝の御前に出て『老婆と嬰児を下野の国(栃木県)に置いて行きま すので、御配慮を下さることを懇請しました。』 と、言われています。」 生きて帰らぬ悲壮な覚悟で土佐坊昌俊は出発しました。 その壮士・土佐坊昌俊の邸は、此の所にありました。 大正十四年三月建 鎌 倉 町 青 年 団 |
平安末。鎌倉初期の武将・僧。 父は桓武平氏秩父氏流の渋谷重家。 土佐房昌俊は法名。 俗名を渋谷金王丸と称した。 もと 源 義朝の小姓で、平治の乱に破れ東国に向かう義朝に従った。 永暦元年(1160年)正月3日義朝が長田忠致のために殺害されると、 その仇を討とうとしたが果たせず、忠致の郎党数十人を斬り、 直ちに京都の常盤御前のもとに義朝の死を急報した。 その時2歳になる幼い牛若(義経)に会っている。 その後、義朝の菩提を弔うため出家し、興福寺西金堂の衆徒となり 法名を「土佐坊昌俊」と称した。 | |
平家追討では、源 範頼に従って西海に赴く軍兵の中にその名が見える。 文治元年(1184年)10月義経追討を進んで引き受け、「下野国中泉荘」を与えられて上洛し、 義経の六条室町亭を急襲した。 | |
【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による |
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《 出典 「中世の荘園」全国分布国別略図リスト 》 |
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◇ 義経の六条堀川館跡の位置について
↑ (平安京) 六条堀川館跡周辺図 | ↑堀川通り 『左女牛井之跡』 |