土佐坊昌俊邸跡 (tosanoboo-tei-ato)の石碑文の説明

☆ 土佐坊昌俊邸跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・


  京都の堀川の館にいる源 義経を夜襲をかけたのは、土佐坊昌俊とその一族であった。

  東鑑(吾妻鏡)の文治元年(1184年)十月の条において次のように記録している。
   「この義経追討にあたって多くの者達は辞退したが、土佐坊昌俊は進んで其の役を受けると申し出たので
   頼朝の御感をえた。義経誅伐の出発の時、頼朝の御前に出て『老婆と嬰児を下野の国(栃木県)に置いて行きま
    すので、御配慮を下さることを懇請しました。』   と、言われています。」

  生きて帰らぬ悲壮な覚悟で土佐坊昌俊は出発しました。
 
  その壮士・土佐坊昌俊の邸は、此の所にありました。

          大正十四年三月建
                                         鎌 倉 町 青 年 団


【人物紹介】

土佐坊昌俊 (とさのぼう しょうしゅん)      1143〜1185(康治2〜文治元)

 平安末。鎌倉初期の武将・僧。 
 父は桓武平氏秩父氏流の渋谷重家。 
             土佐房昌俊は法名。
           俗名を渋谷金王丸しぶやきんのうきると称した。

 もと 源 義朝の小姓で、平治の乱に破れ東国に向かう義朝に従った。
 永暦元年(1160年)正月3日義朝が長田忠致のために殺害されると、
         その仇を討とうとしたが果たせず、忠致の郎党数十人を斬り、
         直ちに京都の常盤御前のもとに義朝の死を急報した。
         その時2歳になる幼い牛若(義経)に会っている。
              
                  (『平治物語』)

 ⇒ 渋谷金王丸(土佐坊昌俊)は牛若(義経)に逢っていた、 《渋谷金汪丸昌俊早打之図》 をご覧下さい。
  
 その後、義朝の菩提を弔うため出家し、興福寺西金堂の衆徒となり
 法名を「土佐坊昌俊」と称した。

その後に大和国「針の荘」の狼藉事件(年貢所当に関連して代官小河遠忠を夜討)で、
相模国の御家人土肥実平の預り人となる。

       
その後、実平の仲立ちによって、関東に下向し 頼朝に仕えることになった。
平家追討では、源 範頼に従って西海に赴く軍兵の中にその名が見える。
文治元年(1184年)10月義経追討を進んで引き受け、「下野国中泉荘」を与えられて上洛し、
義経の六条室町亭を急襲した。

しかし失敗して、洛北鞍馬山に敗走するが、捕らえられ、六条河原で梟首に処せられた。

       
文治元年(1185年)没す。 43歳。

 ⇒ 土佐坊昌俊の義経の六条室町亭を急襲については、 《吾妻鏡の記述》 をご覧下さい。

僧の身でありながらその命を関東に奉り、死後も御家人の鏡として幸若舞、謡曲などで語り伝えられている。

土佐坊昌俊の居宅跡といわれる所が江戸時代の『新編鎌倉志』の地図上で宝戒寺門よこに記されている。


 ⇒ 居宅跡については、 《土佐坊昌俊邸址絵図》 をご覧下さい。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による

【謡曲にみる土佐坊昌俊】
 『七騎落』には「四番は土佐坊、 五番には、実平、 六番ば … 』と土佐坊が載っているが

 石橋山の戦いに土佐坊の名は見えない。……この時期、土佐坊は京都・紀州熊野あたりにいたのでは

 ないか?…。

 湯河原駅裏手ににある城願寺の六角堂のなかにある「七騎落の木造」には、土佐坊の姿はなく

 代わって安達盛長の姿が見られる。

  ⇒ 「安達盛長邸址の石碑」には頼朝をあたかも単独で安房に送った様に刻まれている。。


 ◇ 中泉荘の位置について 

中泉荘・指定地
下野国都賀郡。現、栃木市中央南部、小山市西部、下部賀郡大平町、藤岡町一帯を云う。
《 出典 「中世の荘園」全国分布国別略図リスト 》

◇ 義経の六条堀川館跡ろくじょうほりかわやかたの位置について

土佐坊昌俊ら一党が源 義経の命をなきものにせんと夜襲をかけた六条堀川館跡の周辺地図・・・

六条堀川には源 義家、為家、義朝、義経など源氏武将が館を構えたがその屋敷は今はなく、左女牛井之跡さめがいのあと』の石碑

が立っている。(下図右参照)
邸内に引いていた左女牛井の水は名水としてしられていた。


↑ (平安京) 六条堀川館跡周辺図 ↑堀川通り 『左女牛井之跡』