二十五坊旧跡 (nizyuugo-bou-kiuseki) の 歴 史

二十五坊旧跡の歴史

  1. 初代 供僧職 は「定兼じょうけん」である。

    治承四年 (1180年)十二月、四日の頃、阿闇梨 定兼 上総国より、鎌倉に参上して、
    鶴岡の供僧職になる。    《吾妻鏡》
    二十五坊の 供僧には、身分の高い家柄の子弟がついた。 十六人が平家一門の遺児の時もあった
    実朝を暗殺した、公暁 は二十五坊の第四世長官である。


  2. 応永年中 (1394〜1428) 院宣により、院を坊と呼称がかわる。


  3. 戦国時代 鎌倉管領の衰退にとともに院の廃絶しはじめる。
    天正年中(1573〜1392)末にはわずか七院となる。


  4. 文禄年中(1592〜1596)に徳川家康は、五院を再興し、十二院とする。


  5. 明治維新の排仏毀釈で全くその姿を消した。
    僧坊に伝えられた寺宝は破壊され、焼き払われた。


  6. 昭和四十二年(1967)の鎌倉市の発掘調査で遺構が発見され、「国の史跡」に指定された。

  7.      《市立授産場建設計画の事前発掘調査》

  8. 大手建設業者の宅地造成が始まり、大仏次郎は、
    『二十五坊裏山にブルトーザーが侵入して、樹木を薙ぎ倒した』と訴える。
        《昭和四十二年三月二十八日 神奈川新聞 「今年の鶯」欄》
    市民運動「御谷騒動」を支えた。これをきっかけに「古都保存法」が制定された。