此の地は、源 頼朝の鎌倉時代の頃より、八幡宮に仕える僧の居住する二十五坊と、別当坊がが存在 した所である。 別当職(八幡宮の社務の長官)の公暁が実朝将軍を殺して、その首を手にして潜んだ所と言われている。 公暁の後見人の備中阿闇梨の宅のあったのも此の所である。 応永年中(1384〜1428年)に、院宣によって坊を院と呼ぶようになった。 戦国時代になって、鎌倉管領が衰えると共に多くの院が廃絶した。 天正年中(1573〜1592年)の末には、僅か七院しか残っていなかった。 文禄年中1592〜1596年)に、徳川家康が五院を再興し十二院とした。 明治維新の後、ついに、全ての院は廃絶してしまい、此の地に僧は居なくなった。 大正七年三月 建之 鎌倉町青年会 |
善松坊 ― 香象院 、林東坊 ― 荘厳院 、仏乗坊 ― 浄国院 、安楽坊 ― 安楽院 、座心坊 ― 朝宗院 千南坊 ― 正覚院 、文恵坊 ― 恵光院 、頓覚坊 ― 相承院 、蜜乗坊 ― 我覚院 、静慮坊 ― 最勝院 南禅坊 ― 等覚院 、永乗坊 ― 普賢院 、悉覚坊 ― 如是院 、智覚坊 ― 花蘭院 、円乗坊 ― 宝瓶院 永巌坊 ― 紹隆院 、実円坊 ― 金勝院 、勝蔵坊 ― 海光院 、南蔵坊 ― 吉祥院 、慈月坊 ― 慈蘭院 蓮華坊 ― 蓮華院 、寂静坊 ― 増福院 、華光坊 ― 大通院 、真智坊 ― 宝光院 、乗蓮坊 ― 如意院 |
出展;「社務職次第」による |
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