「文覚」は俗世間にあった時は遠藤盛遠と言い、もとは京都の上皇の御所の警護役を務えめてが、 十八歳のとき、左衛門尉源渡(みなもとのわたる)の妻である袈裟(けさ)御前に思いをよせたが、 ある夜 源 渡と誤って袈裟御前を殺してしまった。 盛遠は大きな過ちに深く悔い、出家して僧となった。 僧になってからの文覚上人の修行は甚だ勇猛であって厳寒・猛夏のなかでも露臥し、厳しい瀑布に立ち 気絶し、死に掛けることもたびたびあった。 養和二年(1182年)四月、頼朝の要請によって弁財天を江ノ島に勧請して、此処に三七・二十一日間 籠もって断食をして祈願を勤めあげた。 此の地は、その文覚上人の屋敷の跡である。 大正十五年三月 建 鎌倉町青年団 |
【文覚上人荒行像】の写真の(出展)は;「鎌倉のみほとけ(別巻)」(湯川晃敏撮影)による |
文 覚 上 人 荒 行 像 ( 碌 山 作 ) | 萩 原 守 衛 ( 碌 山 ) の 略 年 譜 | |
|