文覚上人屋敷跡 (mongaku-yashiki-ato) の石碑文の説明


☆ 文覚上人屋敷跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   「文覚」は俗世間にあった時は遠藤盛遠と言い、もとは京都の上皇の御所の警護役を務えめてが、
  十八歳のとき、左衛門尉源渡(みなもとのわたる)の妻である袈裟(けさ)御前に思いをよせたが、
  ある夜 源 渡と誤って袈裟御前を殺してしまった。
   盛遠は大きな過ちに深く悔い、出家して僧となった。
  僧になってからの文覚上人の修行は甚だ勇猛であって厳寒・猛夏のなかでも露臥し、厳しい瀑布に立ち
  気絶し、死に掛けることもたびたびあった。

   養和二年(1182年)四月、頼朝の要請によって弁財天を江ノ島に勧請して、此処に三七・二十一日間
  籠もって断食をして祈願を勤めあげた。
   此の地は、その文覚上人の屋敷の跡である。

          大正十五年三月 建
                                  鎌倉町青年団


【人物紹介】

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文覚上人 (もんがく しょうにん)      1193〜1203(保延5年〜建仁3年)
                       (高山寺に残る「阿弥陀堂文覚」の軸画記載に準拠)

遠藤盛遠と名乗る武士であった。
18歳で、源 渡の妻・袈裟御前を誤って殺し出家する。
荒行で名を高めた。
承安3年(1173年)、京都・神護寺の復興に努め、勧進のため後白河法皇の院を訪れた際、
相手にされないのに腹立、乱暴を働いたため伊豆に流された。
配流中、流人生活を送っていた頼朝に接近し、反平家の挙兵を勧める。
寿永元年(1182年)、江ノ島に弁財天を勧請して奥州藤原氏の調伏祈願をおこなう。
文治元年(1185年)、頼朝が勝長寿院を開いた折には、義朝の首を京都から持ち帰った。
真言宗・補陀洛寺は養和元年(1181年)、文覚の年来の恩に報いるため建立した。

浄光明寺・不動堂本尊の木造不動明王坐像は、文覚が背負って運んで来たと言う伝説がある。

成就院・補陀洛寺・証菩提寺(横浜市)等には、「文覚上人荒行像」と呼ばれる褌一枚であぐらをかいて

   腕前で組んだ異形の小木造像が蔵されている。

成就院像は明治41年に萩原録山(守衛)がこれを見て感激し、ブロンズ像の「文覚」を作成した。

【人物紹介】は 参考(出展);「鎌倉事典」(白井永二著)による        

「 文 覚 上 人 荒 行 像 」
成就院
   ↑ 成 就 院 蔵    ( 木造、彫眼、像高;31.0cm )  …明治期の摸作…
補陀洛寺
   ↑ 補 陀 洛 寺 蔵    ( 木造、彫眼、像高;31.4cm )
証菩提寺
   ↑ 証 菩 提 寺 蔵    ( 木造、彫眼、像高;32.0cm )
【文覚上人荒行像】の写真の(出展)は;「鎌倉のみほとけ(別巻)」(湯川晃敏撮影)による           

「 萩 原 守 衛 (碌山) と 文 覚 上 人 荒 行 像 」
文 覚 上 人 荒 行 像 ( 碌 山 作 ) 萩 原 守 衛 ( 碌 山 ) の 略 年 譜
萩原碌山の文覚像
 明治12年 (1歳 ) 12月1日長野県南安曇野郡穂高村矢原にて誕生。
 明治31年 (20歳 ) 機業家になろうとして出奔したが上田で連戻される。
 明治32年 (21歳 ) 10月 画家になろうと、巌本善治を頼って上京。
 明治34年 (23歳 ) 渡米を決意して洗礼をうける。
              3月 横浜を出帆しニューヨークへ直行する。
             10月 アート・スチューデント・リーグに入学する。
 明治36年 (25歳 ) 10月 渡仏、パリで仲村不折に会う。
              脱竜窟と自ら名づける屋根裏の小部屋に住み、
              アカデミー・ジュリアンに通学する。
 明治37年 (26歳 ) サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの「考える
              人」をみて深く感動、彫刻への志向強まる。
              帰米し、アート・スチューデント・リーグに入り
              彫刻のためのデッサンをする。
 明治39年 (28歳 ) 2月 高村光太郎がニューヨークに来る。
              柳 敬助と連れ立って光太郎を訪ねる。
              9月 再び 渡仏。
              オランダを経てパリに着き、アカデミー・ジュリアン
              の彫刻部にはいる。
 明治40年 (29歳 ) 1月 五来欽造のはからいで、パリ郊外に移る。
              7月 静養のためロンドンに旅行し、
              滞在中の光と美術館巡りをする。
              年末 帰国のためパリを出発、帰路 イタリア・ギリ
              シャ・エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。
 明治41年 (30歳 ) 3月 帰国、東京に着き一時郷里に帰る。
              此の頃 守衛は恋と芸術との相克に悩し折、仲村不
              折から「文覚上人荒行の像」のことを聞き、鎌倉・
              成就院を訪ねる。守衛は「愛に生きるか」「芸術に
              生きるか」の苦を文覚の像に求めた。
              この像を見て、「彫刻は外形の美の如きは抑々末で
              唯内部の生気を躍動せしたる事実に斯くの如くで無
              ければならぬ」(芸術界)と云う
              第二回文展に「文覚」入選。
 明治43年 (32歳 ) 4月 20日夜 新宿仲村屋で吐血。
                  22日朝 永眠す。
              生家の墓地に埋葬される。


「 飯 尾 寺 の 本 堂 に 掲 げ ら れ た 文 覚 上 人 荒 行 画 像 」

・飯尾寺は千葉県長柄町の南東部、飯尾の山根部落背後の急な石段を上がった山の中腹に建立している。