『吾妻鏡』における 法 華 堂 跡 (holtuke-dou-ato) の記述


法 華 堂 跡にかんする『吾妻鏡』における記述・・・

【1】頼朝一周忌を法華堂において行う。・・・

《正治2年(1200年)庚申 正月小13日 》 の条 
  正治2年(1200年) 正月小13日 庚子 、晴る。 夜に入りて雪る。 ほとほと尺につ。
  かん飯、土肥弥太郎(遠平)が沙汰なり。

  故幕下周しうけつの御忌景を迎へ、かの法花堂において佛事を修せらる。
  北條以下の諸大名群参しいちをなす。
  佛は繪像の釈迦三尊一、阿字一鋪 (御台所の御除髪をもって、これを縫ひたてまつる。)経は金字法華経六部、
  摺寫の五部大乗経。


  導師は 葉上房律師栄西請僧しゃうそう十二経。
     以下省略


《 文  説 》

  頼朝一周忌の法事が「法花堂」、即ち「法華堂」で行われた。

【法華堂内部】には、本尊として釈迦三尊を「一鋪」、即ち一画面の中に釈迦三尊全部が描かれたもの。
   「阿字一鋪」の「阿字」は梵字で、政子の髪の毛を切って、これで刺繍をした「ア字」がかかっていた。
   次に「金字法華経六部」とありますので、法華経を使って、法華三味が修された。

   導師はこの頃、天台宗として鎌倉で活躍していた栄西禅師がつとめ、十二人の僧を招いて行われた。
   
【法華経を使って、法華三味が修された】
   (1) 即ち法華一乗教の天台の教義において行われた。
   (2) 頼朝の追善供養は、大学法眼行慈が四十九忌の導師を勤め、百カ日忌は退行行勇が修しており、
      これは皆 天台系派である。  栄西は禅宗系と言われているが、天台葉上派の派祖である。
   




【2】鴨 長明、は頼朝の死から12年後にこの堂を訪れて追懐の歌を詠む。・・・

《建暦元年(1211年)辛未 10月大13日 》 の条 
  建暦元年(1211年) 10月大13日 辛卯  鴨社かもしゃ氏人うじびと菊大夫長明ながあきら入道(法名蓮胤)。 (飛鳥井)雅経朝臣の
  きょによって、この間下向す。
  (実朝)将軍家に謁したてまつること度々どどに及ぶと云々。

  しかうして今日幕下(頼朝)将軍の御忌日ごきにちに當る。
  かの法花堂に参りて念誦ねんじゅ讀経の間、懐舊の涙しきりに相催し、一首の和歌を堂の柱にしるす。

     草も木もなびきし秋のしも消えてむなしきこけを拂ふ山風



《 文  説 》

10月13日に、加茂社の氏人で法名を蓮胤という菊大夫(鴨)長明入道が、(飛鳥井)雅経朝臣の推挙で
   先日鎌倉に下向して来た。
   何度も実朝将軍に拝謁したという。
   そして今日、源 頼朝の御命日に当たり、かの法華堂に参詣した。
   念誦ねんじゅ讀経読経をすると懐旧の涙が頬にあふれて、一首の和歌を堂の柱に記した。
        草も木もなびきし秋のしも消えてむなしきこけを拂ふ山風




【3】和田の乱。・・・

《建暦3年(1213年)発酉 五月小2日 》 の条 
  建暦3年(1213年) 五月2日 壬寅 、陰る。

  以下5月2日 「吾妻鏡記事」を要約し列挙する。
    (1) 越前 八田朝重、和田義盛の蜂起を大江広元に告げる。
    (2) 三浦義村は義盛に与することの承諾を違約し北條義時に密告する。
    (3) 広元、義時の報告により、北條政子、実朝夫人は御所を離れ、鶴岡別当(定暁)の坊に移る。
    (4) 申の刻(午後5時)、和田義盛一味は御所を急襲する。
       義盛の3男(朝夷奈三郎義秀)、土屋大学助義清等(150の軍勢)は東西より蜂起して、幕府の南門と
       小町上の義時の御邸宅の北西の両門を囲む、義時は不在で留守を預る勇志等が応戦する。
       その後、御所南西の横大路、御所西南の政所の前で、合戦は数度に及んだ。義村は防戦組に加担。
    (5) 酉の刻(午後6時)、幕府の四面を包囲、朝夷奈義秀は惣門を破って南庭に乱入し、御所に火を放つ。

   【吾妻鏡】『酉の尅、賊徒ついに幕府の四面を囲み、旗をなびかせを飛ばす。
         相模修理亮しゅりのすけ泰時・同次郎朝時・上総三郎義氏等、防ぎ戦ひ兵略を盡す。
         しかるに朝夷奈三郎義秀惣門をやぶり、南庭に乱れ入りて、こもるところの御家人等を攻撃し、
         あまつさへ火を御所にはなちて、郭内の室屋一宇を残らず焼亡す。
         これによって将軍家(実朝)、右大将軍家(頼朝)の法華堂に入御す。
         火災をのがれたまうべきが故なり。  相州(義時)・大官令(広元)御共に候ぜらる。  …以下略…
    
    (6) 豪勇朝夷奈義秀に敵する者なし。
        (和田重茂(義盛の甥)、義秀と戦い、義秀を馬から落としたものの、義秀に破れ命を失う。)
        (朝時、義秀と戦い、疵を蒙り、命を全うする。)
        (足利三郎義氏は、政所の前の橋の傍らで義秀と出くわした。鎧の袖を取られたが掘りの西に向かって走った。
        両者の合戦は数刻に及んだ、互角の戦いに見る者は手を打ち舌お鳴らして感心した。藤原朝季が間に割って防いだため、
        義秀に殺害され、この間に義氏は走り逃れる事ができた。)
    (7) 朝夷奈義秀やうやく兵箭窮やきはまり、前濱に遁れる。

   【吾妻鏡】『今日暮れて終夜に及び、星を見るもいまだまず。
         匠作(泰時)全くかの武勇を怖畏ふいせず、かつは身命をて、かつは健士を勤めて調へふせくの間、
         暁更ぎうこうに臨みて、義盛やうやく兵箭窮やきはまり、前濱に遁れる。
         すなわち匠作(泰時)旗を掲げて勢を卒して、中下馬橋を警固したまふ。     …以下略…
         広元朝臣は御文籍を警固せんがために、法花堂より政所にかへる。     …以下略…
         

《建暦3年(1213年)発酉 五月小3日 》 の条 
  建暦3年(1213年) 五月3日 発卯 、小雨そそぐ。


    (8) 横山時兼、義盛救援に来る。
         和田義盛は兵糧は絶たれて、乗馬も疲弊していた。
         寅の尅(午前4時)に横山時兼・波多野盛通ら数十人が、腰越の浦…軍兵三千騎で御家人らを追い散らす。
         辰の尅(午前8時)に曽我・中村・二宮・河村の者が、武蔵大路及び稲村ガ崎の辺りに陣取った。


    (9) 実朝、近国の家人に書を下す。
         巳の尅(午前10時)に実朝は御教書を武蔵以下近国に遣わすことを命じ、北條義時と中原広元が連署した上
         実朝の御花押が記されていた。
      『和田義盛・土谷義清・横山の者共が、謀叛を起こして主君に弓を引いたが、別状はなかった。 … 』


    (10) 由比の浦・若宮大路の激戦。
         義盛は再び御所を襲おうとしたが、 若宮大路は北條泰時・時房が防戦しており、町大路は足利義氏、源 頼茂が、
         また、大倉は佐々木義清と結城朝光がそれぞれ陣を張っていたので、なすすべがなかった。
         そこで、由比浦と若宮大路で合戦し、時が過ぎた。昨夕からこの昼まで休みなく戦いが続き兵士は力の限りを尽くした。
         酉の尅(午後6時)に和田義直(37歳)が伊具馬盛重に討ち取られ、父義盛は声をあげて泣き格別に嘆き悲しんだ。
         義盛の息子、五郎義重(34歳)、六郎義信(28歳)、七郎秀盛(15歳)等も共に誅殺された。
         朝夷奈義秀(38歳)はその軍勢500騎、船6艘で安房国に赴いた。


    (11) 土屋義清、義盛は戦死する。
         義清は、甘縄から亀谷を経てさらに巌堂の前の道を経て法華堂の仮御所に参上しようとしたところ、若宮の赤橋の当りで、
         流矢に当り落命した。 従僕がこの首を取って義清の本願主である寿福寺に葬った。

      戦い終わって、義時は行親・忠家に死骸を実検させた。
      仮屋を由比濱の渚に構えて、義盛以下の首を取り集めた。日暮れになったので、松明を取った。
         
         


  建暦3年(1213年) 五月4日 甲辰 、小雨が降った

    (12) 和田一族の首を固瀬河に梟す。
         古郡保忠、経忠兄弟は、甲斐国で自殺。和田常盛(42歳)と横山時兼(61歳)は甲斐国坂東山で自殺した。
         ひの両人の首が鎌倉に今日到着した。
      固瀬河の河辺に晒された首は234という。

   【吾妻鏡】『辰の尅(午前9時)、将軍家(源 実朝) 法花堂 より東御所(尼御台所の御第)に入御す。
         その後西御門(幕を曳く。)において、両日合戦の間にきずを被る軍士等これを召しあつめられて、
         実検を加へらる。』   
         



《 文  説 》


   
   
   
   




【4】宝治合戦。・・・

《宝治元年(1247年)丁未 6月大 1日〜5日 》 の条 

  以下6月1日〜5日 「吾妻鏡記事」を要約し列挙する。
    (1) 1日 壬午  北條時頼が泰村亭に送った佐々木氏信から、弓数十張に征矢や鎧を収めた唐櫃棹
               数十本が置かれているとの報告があった。

    (2) 2日 発未  近国の御家人が集まって時頼亭を護る。
               この中に佐原盛連もおり、三浦一族も一枚岩でない様子が窺える。。
               
    (3) 3日 甲甲  天晴れ風静かなり。時頼は無為の祈祷をする。
             【吾妻鏡】  「此の程世間のさわく事、なにゆへとかしられ候、御辺うたれ給へき事也、
                     思いまいらせて、御心えのために申候』。
               の落書があり、三浦泰村は北條時頼に身の潔白を釈明している。。
               
    (4) 4日 巳酉  天陰る。
               三浦氏や時頼のもとへ集まる武士が鎌倉に溢れる自体となった。
               退散すべしとの触れが出るも、御家人の退却は見られなかった。
               
  宝治元年(1247年) 6月5日 丙戌 、天晴る。辰の尅(午前9時)、小雨灌く。
   【吾妻鏡】『 今暁鶏鳴く以後、鎌倉中いよいよ物□ぶっそう。』…以下略…
         
    (5) 時頼は、泰村に対して、討伐の意志のない旨の誓詞を遣わし、泰村も喜悦して時頼同様、和平の道
       を探している 返事をした。泰村、妻の持って来た湯漬を安堵して飲む。

    (6) この時頼の行動に対して、安達一族は過敏に反応した。
       覚地が義景・泰盛を呼び、「このままでは三浦氏が益々驕り、安達氏を蔑如する」と叱咤した。
       これが 安達氏による三浦氏攻撃の号令となつた。

   【吾妻鏡】『城九郎泰盛・大曽禰左衛門尉長泰・武藤左衛門尉景頼・橘薩摩十郎公義以下、一味の族
         軍士を引率して甘縄の館を馳せ出づ。同門前の小路を東に行き、若宮大路中下馬橋の北
         に到り手て、鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、相構へて盛阿(平盛綱)帰参以前に、神護寺の
         門前において時の声を作る。
         公義、五石畳文の旗を差し揚げ、筋替橋すじかえばしの邊に進みて鳴鏑なりかぶらを飛ばす。
         この間、陣を宮中に張るところの勇士ことごとくこれに相加わる。

         『しかるに泰村、今更ながら仰天し、家子いえのこ郎党等をして防戦せしむるのところ、…』……以下略…
         泰村すでに攻戦に及ぶの上は、なだめ仰せらるるに所なし。
         まづ陸奥掃部助實時をもつて幕府を警衛せしむ。
         次に北條六郎時定を差して大手の大将軍となす。』……以下略…

    (7) こうして開戦の火蓋が切られた中で、毛利入道西阿(毛利季光)が、三浦方に加わった。
          (毛利季光は、大江広元の子で、季光の娘が時頼に嫁していたこともあって、時頼側に着くつもりであった。
           しかし、季光の妻が泰村の妹という関係があり、妻に押し切られる形で最終的には三浦側へと傾いた)

   【吾妻鏡】『左親衛(時頼)この事を聞きて、午の刻(12時)、御所に参ず。将軍の御前に候ぜられ、
         重ねて奇謀を廻らさる。折節おりふし北風南に変るの間、火を泰村が南燐の人屋に放つ。
         風しきりにあふぎ、煙かのたちを覆ふ。泰村ならびに伴党烟ばんたうけぶりむせび、たちのがれ出でて、
         故右大将軍(頼朝)の法華堂に参籠す。
         舎弟能登守光村は永福寺惣門内にありて、徒兵八十余騎陣を張る。使者を兄泰村が許に
         遣わして云はく、当寺は殊勝の城郭たり。この一所において相共に討手を待たるべしと云々。
         泰村答へて云はく、たとひ鉄壁の城郭ありといへども、定めて今は遁れ得ざらんか。
         同じくは故将軍の御影の御前において、終りを取らんと欲す。  早くこの処に来合すべし。
         専使互ひに一度たりといへども、こと火急の間、光村寺門を出て法花堂に向かふ。』…以下略…
         
         『光村つひに件の堂に参ず。しかる後、西阿・泰村・光村・家村・資村ならびに大隈前司実隆・
         宇都宮前司時綱・春日部前司実景・関左衛門尉政泰以下、絵像ゑざう御影みえいの御前に列候し、
         あるいは往事を談じ、あるいは最後の述懐に及ぶと云々。
         西阿は専修せんじゅ念仏者なり。諸衆を勧請くわんじゃうし、一佛浄土の因をねがはんがために、法事讃はふじさんを行い
         これを廻向ゑかうす。 光村調声てうしゃうたりと云々。』  …以下略…
         
         『両方挑み戦ふ者、ほとほと三刻を経るたり。
         敵陣箭窮やきはまり力く。 しかうして泰村以下むねとたるの輩二百七十六人、都合五百余人自殺せしむ。』
           …以下略…




《 文  説 》

宝治合戦の意味するもの…
   ・ 宝治合戦は上記「吾妻鏡」の記載を見る限り、北条氏対三浦氏の対立と云うより、三浦氏の勢力拡大
     を恐れた安達氏からの攻撃・政変であり、結果、北條氏の専制政治の幕開けとなった。
   ・ 御家人で最大勢力の三浦氏とその与党が一掃され、鎌倉幕府政治は、執権北條時頼(と安達氏)により
     固められ、 得宗専制政治の礎が築かれた。