頼朝の死に関する記事の色々

  頼朝の死の真相は分からない。 『吾妻鏡』は建久7年(1196年)から頼朝の死の正治元年(1199年)2月迄が欠脱している。

    建久十年(正治元年・1199年)正月十三日、頼朝はにわかに病を得て世を去った。   享年五十三歳である。

    直接の死因は、前年の十二月に十七日、家人稲毛重成いなげしげなりが亡妻の冥福を祈って造った相模川の橋供養に臨み、

    帰路落馬したとある。


  死因は断定出来ず、「飲水の重病」とか「所労の為」とか、種々とり沙汰された。

    また、頼朝の死は病死ではなく、怨霊によるものという異説もあるる


  源 頼朝 の 法号

       【 頼朝公 「 武皇嘯厚大禅門ぶこうしょうげんだいぜんもん 」 (左馬頭兼播磨守義朝三男) 】       《 「『古事類苑』 禮式部二十一  葬禮三」 による 》


     以下、 当時の公家社会人々が記した「日記」などを覗いてみたい。



 ☆ 頼朝は、相模川の橋供養の帰りに落馬した。・・・

(建久9年(1198年)12月27日)の記事


[承久記]
  相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、
  下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。

[保暦間記]
  大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし
  源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。
  是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、
  汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。
  我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。
  その後鎌倉へ入給て則病付給けり。

[神皇正統録]
  相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。
  仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。
  時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。

 ☆ 頼朝の死因には色々の説がある。・・・

(建久10年(1199年)〈4月27日改元正治元年〉 己未 1月13日)の記事


[北條九代記]
  右幕下薨ず(五十三)。

[承久記]
  半月に臥し、心神疲屈して、命今は限りと見へ給ふ時、孟光を病床に語て曰く、「半
  月に沈み、君に階老を結て後、多年を送き。今は同穴の時に臨めり」。嫡子少将頼家
  を喚出し、宣玉ひけるは、「頼朝は運命既に尽ぬ。なからん時、千万糸惜せよ。八ヶ
  国の大名・高家が凶害に付くべからず。畠山を憑て日本国をば鎮護すべし」と遺言を
  し給ひける。

[愚管抄]
  関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて十一日に出家して、十三日にうせ
  にけりと。十五六日より聞へたちにき。今年必しづかにのぼりて世の事沙汰せんと思
  ひたりけり。万の事存の外に候などぞ。九條殿へは申つかはしける。



(建久10年(1199年)、1月18日) 晴陰 雪飛び甚だ寒しの記事


[明月記]
  早旦閭巷の説に云く、前の右大将所労獲鱗に依って、去る十一日出家するの由、飛脚
  を以て夜前院に申さる。仍って公澄を以て御使いとして、夜中下向すべきの由仰せら
  る。また公朝法師宣陽門院の御使いとして相共に馳せ下る。朝家の大事何事に過ぐる
  や。怖畏逼迫の世か。また或る説に云く、すでに早世すと。




(建久10年(1199年)、1月20日)天晴 の記事


[明月記]
  前の将軍、去る十一日出家、十三日入滅(大略頓病か)す。未の時ばかりに除目。
  少納言忠明、内蔵頭仲経(兼)、右近大将通親、中将頼家、(以下略)

[愚管抄]
  除目行ひて、通親は右大将に成にき。故摂政をば後京極殿と申すにや。その内大臣な
  りしをこして、頼實大相国入道をば右大臣になしてき。この除目に頼朝が家つぎたる
  嫡子の頼家をば左中将になしてき。


(建久10年(1199年)、1月22日) 天晴 の記事


[明月記]
  右大将初任の翌日より閉門す。前の将軍有事の由奏聞せず(傍輩また此の如し)。見
  存の由を称し、除目を行うの後薨逝を聞き、忽ち驚歎するの由、相示さんが為に閉門
  すと。奇謀の至りなり。また巷説に云く、院中物騒にて、上辺兵革の疑い有り。御祈
  り千万神馬を引かる。



(建久10年(1199年)、1月26日) 天晴雪飛ぶ の記事


[明月記]
  巷説、京中騒動し、衆口狂乱す。院中また物騒にて新大将猶世間を恐ると。



(建久10年(1199年)、1月28日) 天晴 の記事


[明月記]

  世間の狂言日を遂って嗷々す。院中の警固軍陣の如しと。



(建久10年(1199年)、1月30日) 天晴 の記事


[明月記]

  天下の穢に依って、諸社祭停止の由仰せらるると。



その他[百錬抄][猪隈関白記]等によっても頼朝晩年を知る事が出来る。