☆ 頼朝は、相模川の橋供養の帰りに落馬した。・・・ 相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、 下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。 大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし 源氏義廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。 是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、 汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。 我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。 その後鎌倉へ入給て則病付給けり。 相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する所なり。 仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。 時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。 ☆ 頼朝の死因には色々の説がある。・・・ 右幕下薨ず(五十三)。 半月に臥し、心神疲屈して、命今は限りと見へ給ふ時、孟光を病床に語て曰く、「半 月に沈み、君に階老を結て後、多年を送き。今は同穴の時に臨めり」。嫡子少将頼家 を喚出し、宣玉ひけるは、「頼朝は運命既に尽ぬ。なからん時、千万糸惜せよ。八ヶ 国の大名・高家が凶害に付くべからず。畠山を憑て日本国をば鎮護すべし」と遺言を し給ひける。 関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて十一日に出家して、十三日にうせ にけりと。十五六日より聞へたちにき。今年必しづかにのぼりて世の事沙汰せんと思 ひたりけり。万の事存の外に候などぞ。九條殿へは申つかはしける。 早旦閭巷の説に云く、前の右大将所労獲鱗に依って、去る十一日出家するの由、飛脚 を以て夜前院に申さる。仍って公澄を以て御使いとして、夜中下向すべきの由仰せら る。また公朝法師宣陽門院の御使いとして相共に馳せ下る。朝家の大事何事に過ぐる や。怖畏逼迫の世か。また或る説に云く、すでに早世すと。 前の将軍、去る十一日出家、十三日入滅(大略頓病か)す。未の時ばかりに除目。 少納言忠明、内蔵頭仲経(兼)、右近大将通親、中将頼家、(以下略) 除目行ひて、通親は右大将に成にき。故摂政をば後京極殿と申すにや。その内大臣な りしをこして、頼實大相国入道をば右大臣になしてき。この除目に頼朝が家つぎたる 嫡子の頼家をば左中将になしてき。 右大将初任の翌日より閉門す。前の将軍有事の由奏聞せず(傍輩また此の如し)。見 存の由を称し、除目を行うの後薨逝を聞き、忽ち驚歎するの由、相示さんが為に閉門 すと。奇謀の至りなり。また巷説に云く、院中物騒にて、上辺兵革の疑い有り。御祈 り千万神馬を引かる。 巷説、京中騒動し、衆口狂乱す。院中また物騒にて新大将猶世間を恐ると。 世間の狂言日を遂って嗷々す。院中の警固軍陣の如しと。 天下の穢に依って、諸社祭停止の由仰せらるると。 |