【永福寺建設始まる】 |
文治五年 | (1189年) |
7月19日 | 頼朝、奥州藤原氏と戦うため、鎌倉を出発する。 「吾妻鏡」 | ||
12月 9日 | 頼朝、奥州平泉で見た諸堂に感激し、永福寺の建設を決める。 |
建仁二年 | (1191年) |
2月15日 | 頼朝、永福寺跡を建てる場所を決めるため、大倉周辺を歴覧す。 |
【頼朝暗殺未遂事件】 |
建久三年 | (1192年) |
1月21日 | 頼朝、二階堂建設現場・新造御堂に臨み工事を監督する。 |
【畠山重忠の怪力】 |
8月24日 | 二階堂の地に、初めて、池を掘り出す。 |
8月27日 | 頼朝、庭造りの専門家、静玄(阿波阿闇梨静空の弟子)を京都から招いて庭石の配置について相談する。 | ||
9月11日 | 静玄、庭の池に石を並べる。頼朝はこの様子を見学する。 |
平成6年1月25日 撮影 |
平成6年1月25日 撮影
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【二階堂の完成】 |
10月25日 | 惣門建立す。 | ||
10月29日 | 二階堂の扉と仏の背後の壁画が完成する。奥州毛越寺の金堂(円隆寺)の壁画ほ模す。 | ||
11月13日 | 頼朝、静玄の庭石の置き方に満足せず直させる。 | ||
11月20日 | 永福寺 造営 終了。 |
【永福寺供養】 |
11月25日 | 永福寺 完成供養、導師は園城寺の公顕。 ・・・<第T期【創建期】・・・ |
建久四年 | (1193年) |
11月27日 | 阿弥陀堂完成供養、導師は前権僧正真円。 |
建久五年 | (1194年) |
7月14日 | 薬師堂 上棟。 | ||
12月 2日 | 御願寺社の奉行人を定める。 永福寺 ……………三浦義澄・畠山重忠・義勝房成。 同 阿弥陀堂………中原親能・二階堂行政・武藤頼平 同 薬師堂今新造…毛利季光・三善康清・平盛時 |
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12月26日 | 新造薬師堂完成、導師は前権僧正勝賢。 |
正治元年 | (1199年) |
正月13日 | 頼朝、53才で没する。 |
【将軍の遊び】 |
9月23日 | 頼家、永福寺にて蹴鞠を行う。 |
正治二年 | (1200年) |
閏2月29日 | 頼家、僧、稚児等と釣殿で遊ぶ。 |
建仁二年 | (1202年) |
3月14日 | 多宝塔 落成供養。 |
承元元年 | (1207年) |
3月 1日 | 永福寺から、御所北の壷に 桜 や 梅 を移植した。 |
建暦元年 | (1211年) |
閏正月 9日 | 永福寺辺りから、御所の北面に 梅木 を一本 移植した。 | ||
4月29日 | 実朝、泰時等とホトトギスの声を聞こうと永福寺に行くが、聞けずに帰る。 | ||
11月 3日 | ( 惣門、 多宝塔 焼失 )。 |
建暦二年 | (1212年) |
7月23日 | ( 惣門、 再建 )。 |
建保二年 | (1214年) |
3月 9日 | 実朝、永福寺の桜の花見をする。 |
建保四年 | (1216年) |
8月19日 | 永福寺 郭内 に 塔婆供養。 |
建保五年 | (1217年) |
3月10日 | 実朝、夫人同伴で、桜を観るために 永福寺 を参詣する。 | ||
12月25日 | 実朝、永福寺僧坊で終夜和歌会を行う。 |
建久元年 | (1219年) |
12月25日 | ( 惣門、 多宝塔 焼失 )。 |
建久二年 | (1220年) |
12月 2日 | ( 僧坊、二〜三軒 焼失 )。 |
嘉禄二年 | (1226年) |
9月 2日 | 頼経、密蜜に永福寺参詣。隠岐入道行西 が林頭にて盃酒を勧める。 |
寛喜元年 | (1229年) |
3月15日 | 頼経、花見をする。 |
10月26日 | ( 惣門の内門まで、 焼失 )。 |
寛喜三年 | (1231年) |
10月27日 | 頼経、雪見をし、釣殿で和歌会を行う。 |
貞永元年 | (1232年) |
11月29日 | 頼経、雪見をし、釣殿で和歌会を行う。 |
嘉禎元年 | (1235年) |
7月 5日 | ( 惣門 上棟 (『文暦二年 永福寺』 銘の瓦あり ))。 |
寛元二年 | (1244年) |
7月 5日 | 永福寺 並びに 両脇堂 修理 事始め。 ・・・<第U期【鎌倉時代中期】・・・ |
寛元三年 | (1245年) |
10月12日 | 頼経の願いで、如法経を永福寺奥山に納める。 |
【合戦の舞台】 |
宝冶元年 | (1247年) |
6月 5日 | 三浦の乱、三浦光村、永福寺惣門の内側に陣をかまえる。 |
宝冶二年 | (1248年) |
10月21日 | 修理 について 沙汰あり。 |
【将軍の遊び】 |
建長二年 | (1251年) |
3月10日 | 頼嗣、永福寺で花見をする。 |
文応元年 | (1260年) |
2月18日 | 宗尊親王、桜の花を見る。 |
【永福寺炎上】 |
弘安三年 | (1280年) |
10月20日 | 鎌倉大火で、二階堂も焼失する。 ・・・<第V期【鎌倉時代後期】・・・ |
弘安十年 | (1287年) |
8月24日 | 二階堂 修理供養、 導師は僧正 公朝。 |
延慶三年 | (1310年) |
11月 6日 | 浜辺あたりであがった火の手のために二階堂、大門、鐘楼すべてが焼け落ちる。 ・・・<第W期【鎌倉時代後期〜室町時代】・・・ |
元応二年 | (1320年) |
6月16日 | 鎌倉幕府、 永福寺 の修造を督促する。 |
【北条一族滅亡後の永福寺】 |
元弘三年 | (1333年) |
5月 | 北条一族滅亡後、千寿王(後の足利善詮)が別当坊に滞在する。 |
建武二年 | (1335年) |
8月 | 中先代の乱、足利尊氏、直義、別当坊に入る。 |
文和元年 | (1352年) |
3月12日 | 足利尊氏、 別当坊に宿営する。 |
応永十二年 | (1405年) |
12月17日 | 永福寺炎上する。 |
享徳三年 | (1454年) |
此の頃 | 『鎌倉年中行事』…正月の吉書始めに、永福寺の名前が書かれなくなる。 ( この頃、永福寺は廃絶したと思慮される。) |