『吾妻鏡』に見られる 永 福 寺 庭 園 風 景 


永福寺庭園にかんする『吾妻鏡』における記述・・・


 建久三年(1192年)
8月24日 二階堂の地に、初めて、池を掘り出す。
8月27日 頼朝、庭造りの専門家、静玄(阿波阿闇梨静空の弟子)を京都から招いて庭石の配置について
相談する。

9月11日 静玄、堂前の池に石を並べ立てる。頼朝はこの様子を見学する。石の配置 終わる。



『吾妻鏡』    (建久三年九月十一日条)


   「至沼石并形石等  者一丈許也  以て静玄訓。    畠山次郎重忠一人棒ー持之。
   持ー行池中心立ー置之。    観者莫不感其力 云々。」
  

平成3年7月1日〜11月30日の約5カ月間、永福寺跡の庭園の南限と推定される地帯であり、池の範囲を主眼とする調査である。

調査区のほぼ中央では、大小の景石を密集させた南北約10M・東西約5Mの弧状の島を検出(左側写真参照)。これは発掘調査開始

以前から築山状に小高くなっていた箇所で、「中の島」と俗に言われていた所である。

また、調査区東端に露出している俗称「畠山石」(右側写真参照)も寺造営時のものと考えられる地業で根がためされている立石がある

ことが判った。                  《「鎌倉考古」NO.21号  (調査員;菊川 泉 ) 写真&著  による 》


11月13日 頼朝、静玄の庭石の配石に満足せず、静玄を呼んで直させる。

 正治元年(1199年)
正月13日 頼朝、53才 で没する。
9月23日 頼家、永福寺にて蹴鞠を行う。

 正治二年(1200年)
閏2月29日 頼家、僧、稚児等と釣殿で遊ぶ。

 承元元年(1207年)
3月 1日 永福寺から、御所北の壷に 桜 や 梅 を移植した。

 建暦元年(1211年)
閏正月 9日 永福寺辺りから、御所の北面に 梅木 を一本 移植した。
4月29日 朝早く、実朝は泰時等 共にホトトギスの声を聞こうと歩いて 永福寺 に行くが、
ホトトギスの泣く声は聞けずに空しく帰った。

 建保二年(1214年)
3月 9日 実朝、永福寺の桜の花見をする。

 建保五年(1217年)
3月10日 実朝、夫人同伴で、桜を観るために 永福寺 を参詣する。
12月25日 実朝、永福寺僧坊で終夜和歌会を行う。

 嘉禄二年(1226年)
9月 2日 頼経、密蜜に永福寺参詣。隠岐入道行西 が林頭にて盃酒を勧める。

 寛喜元年(1229年)
3月15日 頼経、花見をする。
10月26日 頼経、 蹴鞠 を見る。 和歌会をする。

 貞永元年(1232年)
11月29日 頼経、雪見をし、釣殿で和歌会を行う。 雪は雨となる。

 建長二年(1251年)
3月10日 頼嗣、永福寺で花見をする。

 文応元年(1260年)
2月18日 宗尊親王、桜の花を見る。

 応永十二年(1405年)
12月17日 永福寺炎上する。

 享徳三年(1454年)
此の頃   『鎌倉年中行事』…正月の吉書始めに、永福寺の名前が書かれなくなる。
  ( この頃、永福寺は廃絶したと思慮される。)