歌の橋 (utano-hashi) の 歴 史

歌の橋の歴史

  1. 泉 親平ちかひらの乱 …頼家の遺児 栄実えいじつを奉じて義時 排撃事件

  2. 建保元年(1213年)2月


    泉親平は逐電する。

    僧侶、名を 阿静坊安念 というは、千葉成胤に捕らえられて、北條義時に差し出される。

    この安念法師は以下の事を自白した。

    『信濃の国の泉親平が、栄実(源 頼家の三男・千手せんじゅを担ぎ、義時打倒の陰謀をめぐらかしている』と、

    この陰謀の中に、 和田義直(義盛の子)・和田義重(義盛の子)・和田胤長(義盛の甥で弓の名手) 

    が加わっているという。

    渋河刑部六郎兼守もこの謀反の一味であった。

                               《『吾妻鏡』のページの通り》


    上総(千葉県)伊北荘いほうそう(千葉県夷隅郡大多喜町)にいた和田義盛は鎌倉に赴き実朝将軍に赦免を請うた。

    子の義直と義重は許されたが、甥の胤長は謀反の張本人として

    荏柄天神社前にあった屋敷は没収され、

    同年3月17日、陸奥国岩瀬郡鏡沼(福島県岩瀬郡鏡石町)に配流され、5月9日に誅される。(享年31歳)



       千葉県君津市折木沢居柄に「荏柄城址」があるが、義盛が荏柄邸を奪われたことを惜しみ着工したが完成しなかった


  3. 和田の乱(和田合戦)

  4. 建保元年(1213年)5月2日〜3日

    @和田胤長(義盛の甥)が引回しの上流罪となったこと、

    A義盛は3月25日、荏柄天神社前の胤長邸を給わるも4月2日に没収とれる等々が

    和田氏挙兵の動因と考えられる。

    義盛は150騎をもって幕府や義時邸を襲ったので、鎌倉市中が戦乱に巻き込まれた

    合戦は、事前の 三浦義村(義村の娘・矢部禅尼は時氏の生母)の密告により、2日間で終結している。

    この戦いで、和田義盛は由比浦で梟首された。(享年67歳)

    義盛と共に梟首された者234名(横山時兼・土屋義清・土肥惟平・波多野三郎外)処刑者は数百名という。


    執権義時は、義盛の死により、その別当職を当時は世襲制にもかかわらず、義村に与えず、

    自らが就任している。



    ※1 三浦市和田に和田城址および和田義盛旧里の碑が建立

       横浜市金沢区六浦2丁目附近に、和田館跡と伝承の地がある。

       高座郡上和田(神奈川県大和市上和田)の境川上流域に、和田義盛館跡を伝えている

       千葉県大多喜城址の近くに、和田義盛の伊北館跡との伝承地がある。

       和田義盛の鎌倉宿館は若宮大路の西頬にある。 

    ※2 義盛の伝五輪塔は鎌倉国宝館に保蔵されている。  

       胤長の供養塔は、福島県岩瀬郡須賀川市稲村にある。

       鎌倉市由比ガ浜に和田一族を弔う和田塚碑がある。

       義村(1239年12月、大中風(脳溢血)で没・享年70歳)の墓は三浦市にある。


  5. 和田塚