歌の橋 (utano-hashi) の石碑文の説明


☆ 歌の橋の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   「鎌倉十橋」の一つである。
  建保元年(1213年)二月、渋川刑部六郎兼守は、将軍家に謀反を企てた罪により、死刑に処せられる
  ことになった。
  渋川刑部六郎兼守は、愁嘆のあまり、和歌十首を詠んで荏柄天神に奉納した。
  
  翌朝、将軍実朝は、このことを伝え聞いてひどく感じ入ることがあり、歌に免じて、兼守の罪を許したという。
  
  兼守はこの恩赦に報いるために、この橋を造立して、神徳への感謝の心を表したと伝えられている。
  このことにより、この橋を「歌の橋」と言う。


       昭和十二年三月 建
                               鎌倉町青年団


兼守は、故 頼家 の遺子 栄実(頼家の三男)を将軍にたてようとする陰謀に加担した疑いで逮捕された。

  「吾妻鏡」によると…千葉介成胤、法師一人を生捕り北條義時に引き渡す。大江広元、二階堂行村
の取調べにより、安念法師の白状で信濃の国の泉親平が、栄実を担ぎ、北條義時を打倒する陰謀をめぐし、

その陰謀の中に、和田義盛の子である和田義直・義重・甥の和田胤長らにまじり渋河兼守がいること露見する。


謀反の咎で兼守は安達影盛に預けられる。

翌日の建保元年(1213年)2月25日、渋河兼守は斬罪に処せられるのを嘆き、十首を荏柄天神社に奉納した。

たまたま工藤祐高がそれらの詠歌を目にして 将軍実朝に披露した。

将軍実朝は、歌に免じて、兼守の罪を許したという。


  『ただ和歌にあるか…』と「吾妻鏡」は記述されている。…歌にのめり込んでいる実朝を

  皮肉った表現で結んでいる。