源 頼朝が鎌倉幕府を開いた時、足利義兼は、此の地に居宅を定めて それ以来義兼の子孫は代々、二百数十年に及び此処に住んだ。 足利尊氏が天下の覇権を握って京都に遷り、その子 義詮も尊氏に次いで二代将軍として 京都の邸宅をつぐに及んで、義詮の弟の基氏が関東管領となって、軍事の主権を握り 此の地に住んで以来、基氏の子孫が関東管領となり、京都在住の将軍になぞられて「公方」と呼んだ。 享徳四年(1455年)公方 足利成政は、執事の上杉憲忠との不和が原因で、茨城県の古河 に移りすんでしまったので、其の後は、ついに永らくは廃墟となってしまった。 大正九年三月 建之 鎌 倉 町 青 年 会 |