『吾妻鏡』における  大江広元 (ooe-hiromoto) の記述

大江広元と改姓するに関する『吾妻鏡』における記述・・・
《 建 保 4 年 (1216年)  丙 子 》 の条

 4月7日 庚寅

廣元朝臣、中原姓を改め大江氏と為すべきの由、勅裁を申請すべきの趣、

日来 内々 都鄙 (京都・鎌倉)に談合す。


遂に今日女房に属き許否を伺うと。(二階堂行光を以て申し入る)

 

この時の「申請文」と「勅裁文」は次の通りてす。


「 正四位下行 陸奥守中原朝臣 広元 誠惶誠恐謹ミテ言上ス  殊ニ大恩豪リ 先例に因准いんじゅん(準拠)シテ中

  原姓ヲ改メ大江氏ランコトヲ請フ状

  右 広元謹ミテ案内ヲ検スルニ子細有ルニ依ッテ氏姓ヲ改メシムルハ漢家(漢国)ノ□範イハン(規範)

  本朝恒規(恒例)也 里氏ヲ李ニ改ム 是レ則チ伯陽(老子)ガ先、姓ヲショウニ遷ス又、叔旦(周公旦)

  ガ後為リ田口斎名タダナヲ紀姓ニ改メ、弓削以言ユゲモチトキヲ大江ト為ス 和唐ノ例ゲテカゾフ可カラス 散位従四

  位朝臣惟光コレミツ 父子ノ儀有ルニ依ッテ己ニ嗣嗣ケイシノ理ニ叶フ従四位下行掃部頭カモンノカミ中原朝臣廣秀義育ノ恩

  ヲコウムルトイエドモ姓氏ノ籍ヲ改メント欲 就中ナカンズクニ項年(近年)以来、中原ハ林ヲ成シ材(秀才)ノ学

  校レ多シ 大江ハ永ヲ楽シミ詞浪(文才)ノ知淵清ナルハ少ナシ 早ク本姓ニ復シ絶氏ヲ継グ可

  シ望ミ請フラクハ天恩先例ニ因准シテ中原を改メシメ大江氏為ル可キノ旨宣ヲ下サラバイヨイヨ 皇澤コウタク

  (天皇家繁栄)ノ廣被(広範囲)ヲ仰ギマサニ儒流(学者)ノ再興ヲ知ルベシ 廣元誠惶誠恐 勤言


                               建保四年六月十一日 正四位下行陸奥守中原朝臣廣元


  正二位行中納言 藤原隆衡タカヒラ 宣ス

  勅ヲウケタマハルハフニ依ッテナリ

                               同年六月一日 大外記兼筑前守中原朝臣師重モロシゲ奉ル    」




大江広元の子 大江季光 邸宅にかんする『吾妻鏡』における記述・・・


《  嘉 禄 元 年(元仁2年、4月20日改元) (1225年) 乙酉》 の条

4月30日 庚申 晴

夜半、毛利蔵人大夫入道西阿の宿所(御所向かい)焼亡す。近辺一許町災す。


   毛利宅が御所の向かい(南側)にあったことが推定される。


   北條泰時による 季光の領土内に「五大尊堂」建立に関する発議
   「五大尊明王」を祀る寺院を将軍家(頼経)の御願所として建立する計画


《 寛 喜 3年 (1231年)  辛卯 》 の条
 10月6日 戊午 霽

御願寺を建てらるべきの由沙汰有り。その地を永福寺・大慈寺等の内に点ぜらる。

両 国司・駿河の前司・出羽の前司・隠岐入道・信濃民部入道以下、

陰陽師三人(泰貞・晴賢・重家)を相具し巡検有り。金蔵房をしてこの地に相せしむ。

また当座に於いて 宅磨左近将監為行を召しこれを図絵す。

摂津の守師員・駿河判官光村等を以て御所に 申されをはんぬ。

伊賀式 永福寺内の地は、御台所の御願寺料内々これを定めらると。

部入道光西奉行す。


   「五大堂」建立は、大江季光の提言でに季光の領土内


《 寛喜4年、(4月2日 改元 貞永元年) (1232年) 壬辰 》 の条
 11月3日 巳酉 

五大尊堂のその地引き始めらる。また道路を造らる。


11月18日 甲子
  御台所御願の御堂(大慈寺内)立柱・上棟。

《 文暦2年、、(9月19日 改元 嘉禎元年) (1235年) 乙未 》 の条
2月10日 癸酉 天晴、風静まる
  将軍家基綱の家より五大尊堂の地に渡御す。

  今日御堂を立てらる。