『 吾 妻 鏡 』における 大 慈 寺 (daigi-ji-ato) の 記 述


大慈寺の建立の記述は次の1211年4月18日の記述が最初である。

《 建暦元年 壬申(1211年 )4月18日  癸卯 晴 》 の条

  将軍家の御願として、大倉郷に一勝地を卜し、一寺を始めしめ給う。今日午の刻立柱・上棟なり。
  これ君恩・父徳に報いられんが為と。相州・武州・大官令等参向せらる。
  戌の刻、この所に於いて水神並びに七座土公祭を行わる。橘三蔵人奉行すと。


※ 此の日の午後立柱、上棟。戌の刻(時頃)水神並びに七座土公祭を行った。
    7月23日 惣門を建つ。


《 建暦2年 壬申(1212年 )10月11日  癸未 》 の条

  新造の堂舎を覧玉わんが為、将軍家大倉に渡御す。  相州已下人々多く以て扈従す。
  今 日始めて山水奇石等の沙汰に及ぶ。この所河有り山有り。水木共にその便を得る。地形の勝絶、
  恐らくは仙室と謂うべきか。
  善信(三善善信) 山水絵図を献る。態と京都より召し下すと。殊に御感に預かる所なり。
  この間善信御前に於いて申して云く、
  去る建久九年十 二月の比夢想に云く、善信先君の御共として大倉山の辺に赴く。爰に一老翁有りて云く、
  この地、清和の御宇、文屋の康秀相模の掾として住する所なり。  精舎を建つべし。
  我鎮守と為らんと欲すと。夢覚めての後、この由を上啓す。 時に幕下将軍御病中なり。
  忽ち御信心を催し、もし御平癒に及ばば、堂舎の造営有るべきの由仰せらるるの処、翌年正月薨御す。
  果たされざるの條、愚意潛かに恨みと為す。而るに当御代自然の御願に依ってこの草創有り。
  併しながら霊夢の感応する所なり。境内の繁栄なりと。
  僧 云く、上もまた先年夢想の告げ有るに依って、今これを企てる所なり。これ何ぞ合躰の儀に非ざらんか。
  古今の事書は、文屋の康秀参河の掾として下向せんと欲し、縣見に出立するやの由、
  小野小町を誘引すと。彼の両人共に仁明朝に逢うなり。 清和の御 宇に当たるべきや否やと。
  善信云く、夢中の事、誠に以て実證に備え難し。
※    **古今の事書 [古今和歌集928]

    文屋のやすひでがみかはのぞうになりて、あがたみにはえいでたたじやといひやれり  ける返事によめる

    わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ 小野小町


  但し古除 書を見るに、
  康秀は、元慶三年縫殿の助に任ずるか。然からば清和朝に仕えるの條異儀無きか。
  相模の掾が事等は未だこれを勘がえざると。 将軍家頻りに以て御感有り。
  範高に仰せこの問答の趣を記さるるなり。当寺の縁起を作らるべし。
  この夢記を以て 事始めと為すべきの旨、 内々仰せらると。
※    10月11日 実朝 この現場にきて、庭の事を沙汰する。



大慈寺の完成供養に関する記述・・・


《 建保2年 甲戌(1214年)7月1日 甲子 霽  》 の条

  民部大夫行光を以て御使いとして、大慈寺供養の導師たるべきの由、葉上僧正に仰せらると。


《 建保2年 甲戌(1214年)7月27日 庚寅 終日甚雨  》 の条


  今日、大倉大慈寺(新御堂と号す)供養なり。  巳の刻尼御台所(御輿)彼の寺に渡御 す。
  午の刻将軍家(御束帯)御出で。

  供奉人行列
   前駈(下臈を先と為す)
    橘三蔵人   伊賀左近蔵人仲能   三條左近蔵人親實    蔵人大夫国忠   左近大夫朝親   相模権の守経定
    右馬の助範俊   前の筑後の守頼時
   殿上人 右馬権の頭頼茂
   御車(御車副え二人、  牛童二人、  雑色十八人)
   御劔役   小野寺左衛門の尉秀道
   御調度懸け 加藤左衛門の尉景長
   後騎
    相模の守義時   武蔵の守時房   修理の亮泰時(以上一行)
    前の大膳大夫廣元   前の駿河の守惟義   遠江の守親廣    伊賀の守朝光   筑後の守有範   三浦九郎右衛門の尉胤義
    中條右衛門の尉家長  葛西兵衛の尉清重   嶋津左衛門の尉忠久   佐貫兵衛の尉廣綱   大井紀右衛門の尉實平 
    宇佐美右衛門の尉實政  江右衛門の尉範親   加藤右衛門の尉景廣  江兵衛の尉義範 <
   随兵
    相模の次郎朝時  武田の五郎信光  結城左衛門の尉朝光  佐々木左近将監信綱  伊豆左衛門の尉頼定  若狭兵衛の尉忠秀
    下河邊の四郎行時  塩谷兵衛の尉朝業  大須賀の太郎道信  東の平太所重胤  三浦左衛門の尉義村  筑後左衛門の尉知重
   検非違使 山城判官行村


  寺門に到り御車を税く。右馬権の頭参進し御沓を献る。
  御堂に上るの後、 導 師 葉 上 僧 正 栄 西 伴 僧 二十口 を率いて参入す。
  供養の儀有り。その後晩に及び御布施を引かる。   被物三十重・御馬二十疋なり。



大慈寺の修理に関する記述・・・

《 康元2年3月14日 、改元 正嘉元年 丁巳(1257年 )4月14日 己亥 晴 》 の条


  大慈寺殿の破壊、この間修理を加えらる。
  仍って奉行籐肥前の前司・肥前松葉の次郎 助宗法師(法名行圓)等彼の寺に参会し、供養日時の沙汰有り。
  六月十四日たるべし。
  但し御聴聞の為御出有らば、御方違え有るべきの由、陰陽師等これを勘じ申す。



《「源 実朝顕彰碑」ページ(吾妻鏡の記録)》 をご覧下さい。