源  実 朝 (minamoto-sanetomo) ・ 吾 妻 鏡 抄 年 譜

    【 T 】 誕 生

  1. 1192年(建久3年)8月9日巳の刻(午前10時)に将軍の次男として生まれる。 幼名を千幡という。

  2. 父は初代将軍源 頼朝(46歳)、母は北條政子(36歳)である。

    産所は名越の北條館、浜御所である。


    頼朝は実朝の誕生を祝い、祝行事を行う。

          8月15日に枚生会の相撲を行う。

          8月16日に流鏑馬やぶさめ等を行う。

          8月20日に草鹿くさじしの勝負を行う。


    実朝の誕生は、源 頼朝が征夷大将軍になって、1カ月後のことである。




・・・ 実朝誕生に関する 『 吾 妻 鏡 』 における記述 ・・・

 《建久3年 壬子(1192年 )8月9日 己酉 》 の条 

8月9日 己酉 天晴、風静まる


早旦以後に御台所御産の気あり。御加持は宮の法眼、験者は義慶房・大学房等。、
鶴岡相模の国の神社・仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。

  所謂、
  福田寺(酒匂)    平等寺(豊田)    範隆寺(平塚) 宗元寺(三浦)    常蘇寺(城所)    王福寺(坂下)
  新楽寺(小磯)    高麗寺(大磯)    国分寺(一宮下) 弥勒寺(波多野)   五大寺(八幡、大會の御堂と号す) 寺務寺
  観音寺(金目)    大山寺        霊山寺(日向) 大箱根        惣社(柳田)     一の宮(佐河大明神)
  二の宮(河匂大明神) 三の宮(冠大明神)  四の宮(前祖大明神) 八幡宮        天満宮        五頭宮
  黒部宮(平塚)    賀茂(柳下)     新日吉(柳田)
  先ず鶴岡に神馬二疋(上下)、千葉の平次兵衛の尉・三浦の太郎等これを相具す。
  その外の寺社は在所の地頭これを請け取る。景季・義村等奉行たり。

巳の刻に男子御産なり。
  鳴弦は平山右衛門の尉季重・上野の九郎光範なり。和田左衛門の尉義盛引目役 に候ず。
  小時、江間の四郎殿・三浦の介義澄・佐原の十郎左衛門の尉義連・野三刑部 の丞成綱・籐九郎盛長・
  下妻の四郎弘幹(悪権の守と号す)、以上六人御護り刀を献ず。
  また因幡の前司・小山左衛門の尉・千葉の介以下の御家人、御馬・御劔等を献ず。
  御加持・験者等これを給わる。八田兵衛の尉朝重・野三左衛門の尉義成・左近将監能 直御馬を引く。
  加賀の守俊隆別禄(衣)を取る。

次いで阿野上総の妻室(阿波の局)御乳付けとして参上す。
  女房大貳の局・上野の局・下総の局等御介錯たるべきなり。

次いで御名字定め有り。千萬君 と。



    【 U 】 成 長 ・ 元 服

  1. 1203年(建仁3年)9月、鎌倉幕府三代将軍となる。

  2. 兄の二代将軍 頼家が修善寺に幽閉されたあとをうけて、鎌倉幕府三代将軍となる。


  3. 1203年(建仁3年)10月8日、北條時政の名越亭で元服。



    【 V 】 婚 儀  ( 意 志 の 強 さ )

    実朝が自己主張を強く押し通した時がある。 (其の一)は、婚儀、(其のニ)は、相模川の橋の修理の時である。

  1. 1204年(元久元年)8月4日、御台所は上総前司(足利義兼)の息女たるべき沙汰ありしも容れず。

  2. 1204年(元久元年)10月14日、坊門前大納言信清の息女(実朝と同年齢)御台所として京都より下向に付、
    迎えの人々上洛す。



  3.  《建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子(1204年)8月4日 甲午  》 の条 

      将軍家御嫁娶の事、日来は上総の前司息女たるべきかの由その沙汰有りと雖も、御許容に及ばず。
      京都に申されすでにをはんぬ。仍って彼の御迎え以下用意の事、今日内談有り。
      供奉人に於いては、直の御計らいとして人数を定めらる。容儀花麗の壮士を 以て選び遣わさるべきの由と。


     《建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子(1204年)10月14日 癸卯  》 の条 

      坊門前の大納言(信清卿)息女、将軍家御台所として下向せしめ給うべきに依って、御迎えの為人々上洛す。
      所謂左馬権の助・結城の七郎・千葉平次兵衛の尉・畠山の六郎・筑後の六郎・和田の三郎・土肥の先次郎・
      葛西の十郎・佐原の太郎・多々良の四郎・長井の太郎・宇佐美の三郎・佐々木の小三郎・南條の平次・安西の四郎等なり。


    実朝の意志の強さは「相模川の橋の修理の時」にもかいま見る事が出来る。
  4. 1212年(建仁2年)2月28日、相模川の橋朽ちて修理を要す。 

  5.            実朝、修理を不吉とする義時・広元らの意見を退け、修理を命ず。


    【 W 】 歌人 実 朝 の 形 成 … そ し て 歌 に 耽 溺

  1. 1209年(承元3年)7月5日、夢想に依り詠歌二十首を、内藤右馬充知親を使者として住吉社に奉る。。

  2. 序を以て去建永元年初学以来の歌三十首を選び、定家の合点を受く。

    1209年(承元3年)8月13日、知親京都より帰参し、定家の合点を加えたる歌を返進し、

    又詠歌口伝一巻を献ず。

  3. 1211年(建暦元年)10月13日、鴨長明此の間より雅経(飛鳥井雅経)の挙によって鎌倉に下向せるを。

  4. 度々引見す。今日幕下の忌日に当り、長明法華堂にて読経の間懐旧の涙頻に催すし、

    和歌一首を堂の柱に注す。

       草モ木モ 靡シ秋ノ霜消テ 空キ苔ヲ払ウ 山風 

  5. 1212年(建暦2年)2月1日、和田新兵衛尉朝盛に遣し、梅花一枝を塩谷朝業に送る。

  6. 朝業一首の和歌を返す

       ウレシサモ 匂モ袖ニ余リケル 我為ヲレル 梅ノ初花 


  • 1213年(建保元年)12月18日、『金槐和歌集』(藤原定家所伝本)成る。


    1. 【 X 】 実 朝 の 行 動 


      【A】 大慈寺建立
      1212年(建暦2年)4月18日〜

      《「大慈寺跡」ページ(吾妻鏡の記録)》 をご覧下さい。                       

      【B】 渋河六郎兼守の事件
      1213年(建暦3年)2月2日〜


      《「歌ノ橋」ページ(吾妻鏡の記録)》 をご覧下さい。                       

      【C】 和田の乱
      >1213年(建保元年)5月2日〜



      【D】 宋 船 建 造 
      1216年(建保4年)6月8日。
      宋人・陳和卿、参着。筑後左衛門尉朝重の宅を旅宿とする。

      1217年(建保4年)6月15日。
      実朝、御所にて陳和卿と対面する。

      1216年(建保4年)11月24日。 …実朝;25歳…
      医王山を参拝の渡宋を企てる。宋人・陳和卿に唐船の修造命ず。

      徒者60余人を定める。義時・広元等 これに反対すめる。

      1217年(建保5年)4月17日。 …実朝;26歳…
      陳和卿の渡宋船完成。実朝、義時・広元等臨席のもとで、由比ノ浦で進水を試みるが失敗。

      船は砂頭に朽損。



       《 建保4年、2月20日改元 元久元年 丙 子 (1216年) 11月24日 癸卯 晴 》 の条 

      将軍家先生の御住所医王山を拝し給わんが為、渡唐せしめ御うべきの由思し食し立つに依って、
      唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰す。
      また扈従人六十余輩を定めらる。
      朝光これを奉行す。
      相州・奥州頻りに以てこれを諫め申さると雖も、御許容に能わず。
      造船の沙汰に及ぶ と。


       《 建保5年、  丁丑 (1217年) 4月17日 甲子 晴 》 の条 
      宋人和卿唐船を造畢す。今日数百輩の疋夫を諸御家人に召し、彼の船を由比浦に浮か べんと擬す。
      即ち御出有り。右京兆監臨し給う。信濃の守行光今日の行事たり。
      和卿 の訓説に随い、諸人筋力を尽くしてこれを曳く。
      午の刻より申の斜めに至る。
      然れど もこの所の躰たらく、唐船出入すべきの海浦に非ざるの間、浮かべ出すこと能わず。
      仍って還御す。
      彼の船は徒に砂頭に朽ち損ず と。


      《「和賀江嶋」ページ(吾妻鏡の記録)》 をご覧下さい。


      【 Y 】  官 位 昇 進 

      あまりにも実朝が官位昇進を願ったので,大江広元は、北條義時に頼まれて、実朝を諌めたことがある。
          この時 実朝は次の様に答えた。     『 諌諍かんじょうの趣、もっとも甘心すべしといえども、源氏の正統は、この時に
          縮まりおわんぬ。 子孫、 あえて相継ぐべからず。
          しからば飽くまでも高位に昇り、家名を挙げんと欲す。』
         次の様に 実朝の 官位昇進は早かった。

      西 暦 元 号 数 え 年  官   位   昇   進
      1203 建 仁 三 年 12歳   従五位下 征夷大将軍 右兵衛佐
      1204 建 仁 元 年 13歳   従五位上 /TD>
      1205 元 久 二 年 14歳   正五位下 右近衛中将 従四位下/TD>
      1207 承 元 元 年 16歳   従四位上 
      1208 承 元 二 年 17歳   正四位下 
      1209 承 元 三 年 18歳   従三位 右近衛中将 (再任) /TD>
      1211 建 暦 元 年 20歳   正三位  
      1212 建 暦 二 年 21歳   従二位  
      1213 建 保 元 年 22歳   正二位  
      1214 建 保 二 年 23歳   美作権守 (兼任) 
      1216 建 保 四 年 25歳   権中納言 左近衛中将 (兼任) 
      1218 建 保 六 年 27歳   権大納言 左近衛大将 (兼任) 
        内大臣 右大臣

      実朝が官位昇進を願うと同時に、後鳥羽上皇にも邪悪な計略があったと思われる。
         後鳥羽上皇の后と実朝室は、実の姉と妹の間柄である。
         一見、公武融和の状況で平和のようだつた。しかし
         実朝が急速に昇進したのは、後鳥羽上皇が実朝に「官打ち」をしかけていたとも云われている。

         『承久兵乱記』には、此の時期 後鳥羽上皇は三条白河に最勝四天王寺を建立して実朝の呪詛調伏を図っていたと記されている。


        【 Z 】  実 朝 の 死 

      1. 1219年(承久元年)正月27日      …実朝;28歳…

      2. 夜、雪が降り二尺余積もる。実朝、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に御参。

        桜門の所で、義時、体の不調を訴え、御剣の役を源 仲章に譲って退出する。

        夜陰に神拝終わって退出の時、公暁、実朝を殺害する。


        公暁は、実朝の首を持って、後見の備中阿闇利の雪下北谷の亭にいる。

        食事の間、首をはなさず、自らが関東の長であるとして、使いを三浦義村に送る。

        義村、義時に報告し、公暁を誅すべしとの命により長尾定景を派遣。

        定景、義村の宅に行こうとする公暁と遭遇し、これを誅す。


        実朝出立の時より異変が多く、広元、束帯の下に腹巻の着用を勧めるが、源 仲章の反対により実行されず。

        また、宮内公氏が御髪に候したところ、実朝は御髪一筋をぬてい、記念と称して公氏に下賜し、

        庭の梅をみて、禁忌の和歌を詠じた。

               出テイナハ 主ナキ宿ト成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ 春ヲワスルナ

        さらに南門を出る時、鶴岡八幡宮の鳩が鳴き騒ぎ、車から下りる際も、雄剣を突き折った。


      3. 1219年(承久元年)正月28日

      4.   実朝の薨去を報告するため、加藤次郎を使者として上洛させる。

          御台所及び源 親広ら御家人百余人出家する。

        同日、実朝を勝長寿院の傍に葬る。

          首の所在不明により、公氏に賜った御髪を棺に入れる。



       《 建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯 (1219年) 正月27日 戊子 霽 》 の条 

      夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
      今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
        行列
        先ず居飼四人(二行、退紅・手下を縫い越す)
      次いで舎人四人(二行、柳の上下・平礼)
        次いで一員(二行)
          將曹菅野の景盛  府生狛の盛光  将監中原の成能(已上束帯)
      次いで殿上人(二行)
          一條侍従能氏          籐兵衛の佐頼経
      伊豫少将實雅          右馬権の頭頼茂朝臣
          中宮権の亮信能朝臣(子随身四人)一條大夫頼氏
      一條少将能継          前の因幡の守師憲朝臣
          伊賀少将隆経朝臣        文章博士仲章朝臣
      次いで前駆笠持
        次いで前駆(二行)
          籐の勾當頼隆          平の勾當時盛
      前の駿河の守季時        左近大夫朝親
          相模権の守経定         蔵人大夫以邦
      右馬の助行光          蔵人大夫邦忠
          右衛門大夫時廣         前の伯耆の守親時
      前の武蔵の守義氏        相模の守時房
          蔵人大夫重綱          左馬権の助範俊
      右馬権の助宗保         蔵人大夫有俊
          前の筑後の守頼時        武蔵の守親廣
      修理権大夫惟義朝臣       右京権大夫義時朝臣
        次いで官人
          秦の兼峯
      番長下毛野の敦秀(各々白狩袴・青一の腫巾・狩胡箙)
        次いで御車(檳榔) 車副四人(平礼・白張)、牛童一人
      次いで随兵(二行)
          小笠原の次郎長清(甲小桜威)  武田の五郎信光(甲黒糸威)
      伊豆左衛門の尉頼定(甲萌黄威) 隠岐左衛門の尉基行(甲紅威)
          大須賀の太郎道信(甲藤威)   式部大夫泰時(甲小桜)
      秋田城の介景盛(甲黒糸威)   三浦の小太郎朝村(甲萌黄)
          河越の次郎重時(甲紅)     荻野の次郎景員(甲藤威)
      各々冑持一人、張替持一人、傍路前行す。但し景盛は張替を持たしめず。
        次いで雑色二十人(皆平礼)
        次いで検非違使
      大夫判官景廉(束帯・平塵蒔の太刀。舎人一人、郎等四人。調度懸・小舎人童各
       々一人。看督長二人。火長二人。雑色六人。放免五人)
        次いで御調度懸
          佐々木五郎左衛門の尉義清
      次いで下臈御随身
          秦の公氏      同兼村     播磨の貞文
          中臣の近任     下毛野の敦光  同敦氏
      次いで公卿
          新大納言忠信(前駆五人)    左衛門の督實氏(子随身四人)
       宰相中将国道(子随身四人)   八條三位光盛
          刑部卿三位宗長(各々乗車)
        次いで
      左衛門大夫光員         隠岐の守行村
          民部大夫廣綱          壱岐の守清重
      関左衛門の尉政綱        布施左衛門の尉康定
          小野寺左衛門の尉秀道      伊賀左衛門の尉光季
      天野左衛門の尉政景       武藤左衛門の尉頼茂
          伊東左衛門の尉祐時       足立左衛門の尉元春
      市河左衛門の尉祐光       宇佐美左衛門の尉祐政
          後藤左衛門の尉基綱       宗左衛門の尉孝親
      中條右衛門の尉家長       佐貫右衛門の尉廣綱
          伊達右衛門の尉為家       江右衛門の尉範親
      紀右衛門の尉實平        源四郎右衛門の尉季氏
          塩谷兵衛の尉朝業        宮内兵衛の尉公氏
      若狭兵衛の尉忠季        綱嶋兵衛の尉俊久
          東兵衛の尉重胤         土屋兵衛の尉宗長
      堺兵衛の尉常秀    狩野の七郎光廣(任右馬の允の除書、後日到着すと)
        路次の随兵一千騎なり。
      宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に
      譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及
      び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い
      来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。その後随兵等宮中(武田の五郎信光先登に進む)
      に馳せ駕すと雖も、讎敵を覓むに所無し。或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当闍
      梨公暁父の敵を討つの由名謁らると。これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。
      彼の門弟の悪僧等その内に籠もり相戦うの処、長尾の新六定景と子息太郎景茂・同次
      郎胤景等先登を諍うと。勇士の戦場に赴くの法、人以て美談と為す。遂に悪僧敗北す。
      阿闍梨この所に坐し給わず。軍兵空しく退散す。諸人惘然の外他に無し。爰に阿闍梨
      彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶
      手を御首より放さずと。使者彌源太兵衛の尉(阿闍梨の乳母子)を義村に遣わさる。
      今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべきの由示し合わ
      さる。これ義村の息男駒若丸門弟に列なるに依って、その好を恃まるるが故か。義村
      この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。小選、
      先ず蓬屋に光臨有るべし。且つは御迎えに兵士を献るべきの由これを申す。使者退去
      の後、義村使者を発し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆左右無く阿闍梨を誅し奉るべき
      の由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。阿闍梨は太だ武勇に足り、直
      なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たるの由各々相議すの処、義村勇
      敢の器を撰ばしめ、長尾の新六定景を討手に差す。定景(雪の下の合戦を遂げるの後、
      義村の宅に向かう)辞退すること能わず。座を起ち黒皮威の甲を着し、雑賀の次郎(西
      国の住人、強力の者なり)以下郎従五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴
      くの刻、阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らん
      と擬す。仍って定景と途中に相逢う。雑賀の次郎忽ち阿闍梨を懐き、互いに雌雄を諍
      う処、定景太刀を取り、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着す。年二十と)の首を梟す。こ
      れ金吾将軍(頼家)の御息、母は賀茂の六郎重長の女(為朝の孫女なり)、公胤僧正
      の入室、貞暁僧都の受法の弟子なり。定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆
      の御亭に持参す。亭主出居しその首を見らる。安東の次郎忠家指燭を取る。李部仰せ
      られて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有りと。抑も今日の勝事、兼
      ねて変異を示す事一に非ず。所謂御出立の期に及び、前の大膳大夫入道参進し申して
      云く、覺阿成人の後、未だ涙の顔面に浮かぶを知らず。而るに今昵近し奉るの処落涙
      禁じ難し。これ直なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大将軍
      御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を着けしめ給うべしと。仲章朝臣申して云く、大
      臣大将に昇るの人、未だその式有らずと。仍ってこれを止めらる。また公氏御鬢に候
      すの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称しこれを賜う。次いで庭の梅を覧て、禁忌の
        和歌を詠み給う。
      出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
        次いで南門を御出の時、霊鳩頻りに鳴き囀る。車より下り給うの刻、雄劔を突き折ら
      ると。また今夜の中、阿闍梨の伴党を糺弾すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃
      の国住人中野の太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭に具し参る。これ
        彼の受法の師たるなり。
      [北條九代記]
        戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮
      り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。
       


       《 承久元年、 己卯 (1219年) 正月28日 》 の条 
      今暁加藤判官次郎使節として上洛す。これ将軍家薨逝の由を申さるるに依ってなり。
      行程五箇日に定めらると。辰の刻、御台所落餝せしめ御う。荘厳房律師行勇御戒師た
      り。また武蔵の守親廣・左衛門大夫時廣・前の駿河の守季時・秋田城の介景盛・隠岐
      の守行村・大夫の尉景廉以下御家人百余輩、薨御の哀傷に堪えず、出家を遂げるなり。
      戌の刻、将軍家勝長寿院の傍らに葬り奉る。去る夜御首の在所を知らず。五體不具な
      り。その憚り有るべきに依って、昨日公氏に給う所の御鬢を以て、御頭に用い入棺し
        奉ると。