【 Y 】 官 位 昇 進
あまりにも実朝が官位昇進を願ったので,大江広元は、北條義時に頼まれて、実朝を諌めたことがある。
この時 実朝は次の様に答えた。
『
諌諍の趣、もっとも甘心すべしといえども、源氏の正統は、この時に
縮まりおわんぬ。 子孫、 あえて相継ぐべからず。
しからば飽くまでも高位に昇り、家名を挙げんと欲す。』
次の様に 実朝の 官位昇進は早かった。
西 暦 |
元 号 |
数 え 年 |
官 位 昇 進 |
1203 |
建 仁 三 年 |
12歳 |
従五位下 征夷大将軍 右兵衛佐 |
1204 |
建 仁 元 年 |
13歳 |
従五位上 /TD> |
1205 |
元 久 二 年 |
14歳 |
正五位下 右近衛中将 従四位下/TD> |
1207 |
承 元 元 年 |
16歳 |
従四位上 |
1208 |
承 元 二 年 |
17歳 |
正四位下 |
1209 |
承 元 三 年 |
18歳 |
従三位 右近衛中将 (再任) /TD> |
1211 |
建 暦 元 年 |
20歳 |
正三位 |
1212 |
建 暦 二 年 |
21歳 |
従二位 |
1213 |
建 保 元 年 |
22歳 |
正二位 |
1214 |
建 保 二 年 |
23歳 |
美作権守 (兼任) |
1216 |
建 保 四 年 |
25歳 |
権中納言 左近衛中将 (兼任) |
1218 |
建 保 六 年 |
27歳 |
権大納言 左近衛大将 (兼任)
内大臣 右大臣 |
実朝が官位昇進を願うと同時に、後鳥羽上皇にも邪悪な計略があったと思われる。
後鳥羽上皇の后と実朝室は、実の姉と妹の間柄である。
一見、公武融和の状況で平和のようだつた。しかし
実朝が急速に昇進したのは、後鳥羽上皇が実朝に「官打ち」をしかけていたとも云われている。
『承久兵乱記』には、此の時期 後鳥羽上皇は三条白河に最勝四天王寺を建立して実朝の呪詛調伏を図っていたと記されている。
【 Z 】 実 朝 の 死
- 1219年(承久元年)正月27日 …実朝;28歳…
- 夜、雪が降り二尺余積もる。実朝、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に御参。
- 桜門の所で、義時、体の不調を訴え、御剣の役を源 仲章に譲って退出する。
- 夜陰に神拝終わって退出の時、公暁、実朝を殺害する。
- 公暁は、実朝の首を持って、後見の備中阿闇利の雪下北谷の亭にいる。
- 食事の間、首をはなさず、自らが関東の長であるとして、使いを三浦義村に送る。
- 義村、義時に報告し、公暁を誅すべしとの命により長尾定景を派遣。
- 定景、義村の宅に行こうとする公暁と遭遇し、これを誅す。
- 実朝出立の時より異変が多く、広元、束帯の下に腹巻の着用を勧めるが、源 仲章の反対により実行されず。
- また、宮内公氏が御髪に候したところ、実朝は御髪一筋をぬてい、記念と称して公氏に下賜し、
- 庭の梅をみて、禁忌の和歌を詠じた。
- 出テイナハ 主ナキ宿ト成ヌトモ 軒端ノ梅ヨ 春ヲワスルナ
- さらに南門を出る時、鶴岡八幡宮の鳩が鳴き騒ぎ、車から下りる際も、雄剣を突き折った。
- 1219年(承久元年)正月28日
- 実朝の薨去を報告するため、加藤次郎を使者として上洛させる。
- 御台所及び源 親広ら御家人百余人出家する。
- 同日、実朝を勝長寿院の傍に葬る。
- 首の所在不明により、公氏に賜った御髪を棺に入れる。
- 《 建保7年、4月12日改元 承久元年 己卯 (1219年) 正月27日 戊子 霽 》 の条
- 夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
- 今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
行列 先ず居飼四人(二行、退紅・手下を縫い越す)
- 次いで舎人四人(二行、柳の上下・平礼)
次いで一員(二行) 將曹菅野の景盛 府生狛の盛光 将監中原の成能(已上束帯)
- 次いで殿上人(二行)
一條侍従能氏 籐兵衛の佐頼経
- 伊豫少将實雅 右馬権の頭頼茂朝臣
中宮権の亮信能朝臣(子随身四人)一條大夫頼氏
- 一條少将能継 前の因幡の守師憲朝臣
伊賀少将隆経朝臣 文章博士仲章朝臣
- 次いで前駆笠持
次いで前駆(二行) 籐の勾當頼隆 平の勾當時盛
- 前の駿河の守季時 左近大夫朝親
相模権の守経定 蔵人大夫以邦
- 右馬の助行光 蔵人大夫邦忠
右衛門大夫時廣 前の伯耆の守親時
- 前の武蔵の守義氏 相模の守時房
蔵人大夫重綱 左馬権の助範俊
- 右馬権の助宗保 蔵人大夫有俊
前の筑後の守頼時 武蔵の守親廣
- 修理権大夫惟義朝臣 右京権大夫義時朝臣
次いで官人 秦の兼峯
- 番長下毛野の敦秀(各々白狩袴・青一の腫巾・狩胡箙)
次いで御車(檳榔) 車副四人(平礼・白張)、牛童一人
- 次いで随兵(二行)
小笠原の次郎長清(甲小桜威) 武田の五郎信光(甲黒糸威)
- 伊豆左衛門の尉頼定(甲萌黄威) 隠岐左衛門の尉基行(甲紅威)
大須賀の太郎道信(甲藤威) 式部大夫泰時(甲小桜)
- 秋田城の介景盛(甲黒糸威) 三浦の小太郎朝村(甲萌黄)
河越の次郎重時(甲紅) 荻野の次郎景員(甲藤威)
- 各々冑持一人、張替持一人、傍路前行す。但し景盛は張替を持たしめず。
次いで雑色二十人(皆平礼) 次いで検非違使
- 大夫判官景廉(束帯・平塵蒔の太刀。舎人一人、郎等四人。調度懸・小舎人童各
- 々一人。看督長二人。火長二人。雑色六人。放免五人)
次いで御調度懸 佐々木五郎左衛門の尉義清
- 次いで下臈御随身
秦の公氏 同兼村 播磨の貞文 中臣の近任 下毛野の敦光 同敦氏
- 次いで公卿
新大納言忠信(前駆五人) 左衛門の督實氏(子随身四人)
- 宰相中将国道(子随身四人) 八條三位光盛
刑部卿三位宗長(各々乗車) 次いで
- 左衛門大夫光員 隠岐の守行村
民部大夫廣綱 壱岐の守清重
- 関左衛門の尉政綱 布施左衛門の尉康定
小野寺左衛門の尉秀道 伊賀左衛門の尉光季
- 天野左衛門の尉政景 武藤左衛門の尉頼茂
伊東左衛門の尉祐時 足立左衛門の尉元春
- 市河左衛門の尉祐光 宇佐美左衛門の尉祐政
後藤左衛門の尉基綱 宗左衛門の尉孝親
- 中條右衛門の尉家長 佐貫右衛門の尉廣綱
伊達右衛門の尉為家 江右衛門の尉範親
- 紀右衛門の尉實平 源四郎右衛門の尉季氏
塩谷兵衛の尉朝業 宮内兵衛の尉公氏
- 若狭兵衛の尉忠季 綱嶋兵衛の尉俊久
東兵衛の尉重胤 土屋兵衛の尉宗長
- 堺兵衛の尉常秀 狩野の七郎光廣(任右馬の允の除書、後日到着すと)
路次の随兵一千騎なり。
- 宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に
- 譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及
- び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い
- 来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。その後随兵等宮中(武田の五郎信光先登に進む)
- に馳せ駕すと雖も、讎敵を覓むに所無し。或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当闍
- 梨公暁父の敵を討つの由名謁らると。これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。
- 彼の門弟の悪僧等その内に籠もり相戦うの処、長尾の新六定景と子息太郎景茂・同次
- 郎胤景等先登を諍うと。勇士の戦場に赴くの法、人以て美談と為す。遂に悪僧敗北す。
- 阿闍梨この所に坐し給わず。軍兵空しく退散す。諸人惘然の外他に無し。爰に阿闍梨
- 彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶
- 手を御首より放さずと。使者彌源太兵衛の尉(阿闍梨の乳母子)を義村に遣わさる。
- 今将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべきの由示し合わ
- さる。これ義村の息男駒若丸門弟に列なるに依って、その好を恃まるるが故か。義村
- この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。小選、
- 先ず蓬屋に光臨有るべし。且つは御迎えに兵士を献るべきの由これを申す。使者退去
- の後、義村使者を発し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆左右無く阿闍梨を誅し奉るべき
- の由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。阿闍梨は太だ武勇に足り、直
- なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たるの由各々相議すの処、義村勇
- 敢の器を撰ばしめ、長尾の新六定景を討手に差す。定景(雪の下の合戦を遂げるの後、
- 義村の宅に向かう)辞退すること能わず。座を起ち黒皮威の甲を着し、雑賀の次郎(西
- 国の住人、強力の者なり)以下郎従五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴
- くの刻、阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らん
- と擬す。仍って定景と途中に相逢う。雑賀の次郎忽ち阿闍梨を懐き、互いに雌雄を諍
- う処、定景太刀を取り、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着す。年二十と)の首を梟す。こ
- れ金吾将軍(頼家)の御息、母は賀茂の六郎重長の女(為朝の孫女なり)、公胤僧正
- の入室、貞暁僧都の受法の弟子なり。定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆
- の御亭に持参す。亭主出居しその首を見らる。安東の次郎忠家指燭を取る。李部仰せ
- られて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有りと。抑も今日の勝事、兼
- ねて変異を示す事一に非ず。所謂御出立の期に及び、前の大膳大夫入道参進し申して
- 云く、覺阿成人の後、未だ涙の顔面に浮かぶを知らず。而るに今昵近し奉るの処落涙
- 禁じ難し。これ直なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大将軍
- 御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を着けしめ給うべしと。仲章朝臣申して云く、大
- 臣大将に昇るの人、未だその式有らずと。仍ってこれを止めらる。また公氏御鬢に候
- すの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称しこれを賜う。次いで庭の梅を覧て、禁忌の
和歌を詠み給う。
- 出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
次いで南門を御出の時、霊鳩頻りに鳴き囀る。車より下り給うの刻、雄劔を突き折ら
- ると。また今夜の中、阿闍梨の伴党を糺弾すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃
- の国住人中野の太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭に具し参る。これ
彼の受法の師たるなり。
- [北條九代記]
戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮
- り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。
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- 《 承久元年、 己卯 (1219年) 正月28日 》 の条
- 今暁加藤判官次郎使節として上洛す。これ将軍家薨逝の由を申さるるに依ってなり。
- 行程五箇日に定めらると。辰の刻、御台所落餝せしめ御う。荘厳房律師行勇御戒師た
- り。また武蔵の守親廣・左衛門大夫時廣・前の駿河の守季時・秋田城の介景盛・隠岐
- の守行村・大夫の尉景廉以下御家人百余輩、薨御の哀傷に堪えず、出家を遂げるなり。
- 戌の刻、将軍家勝長寿院の傍らに葬り奉る。去る夜御首の在所を知らず。五體不具な
- り。その憚り有るべきに依って、昨日公氏に給う所の御鬢を以て、御頭に用い入棺し
奉ると。
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