『吾妻鏡』における 朝夷奈切通 (asashina-kiridooshi) の記述

朝夷奈切通にかんする『吾妻鏡』における記述・・・

@ 《 1240年 (延應2年7月16日 改元 仁治元年) 11月30日 庚子 》 の条

  11月30日 己未 天晴

   鎌倉と六浦津との中間、始めて道路に当てらるべきの由議定有り。
   今日縄を曳き丈尺を打ち、御家人等に配分せらる。
   明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると。
   前の武 州 (北條泰時) その所処を監臨し給う。
   中野左衛門の尉時景これを奉行す。
    (安倍) 泰貞朝臣日次を擇び申す と。


 ⇒※ すぐ着工したかったが、陰陽師安倍(藤原)泰貞が日次ひなみを調べると、来春以降にすることとし、

     中野左衛門尉時景を奉行にすえた。



 【安倍泰貞並びに安倍清明関係の石碑について】
安倍泰貞は、安倍清明から八代目にあたる陰陽師。

安倍清明(生没年未詳)鎌倉前・中期の陰陽師おんみょうじ。承久の乱後、京都から鎌倉に下向して幕府に仕えた。

『吾妻鏡』には約150回の記載をみる。興味深い記事では、仁治2年(1241年)10月、多摩川からの引水による

武蔵野水田開発に際し、これを犯土はんど(土を掘り、あるいは動かすことは、土の神の領域を犯す行為だとする陰陽道の禁忌)

と見るべきかどうか下問している。


北鎌倉にある「安部清明の石碑」
八雲神社境内に建立 明月院踏切脇に建立 大六天に所在


A 《 1241年 (仁治2年) 4月5日 辛丑 》 の条   

  4月5日 癸亥 霽

   六浦道造り始めらる。これ急速の沙汰有るべきの由、去年の冬評議を経らると雖も、
   新路を始めらるること、大犯土たるの間、明春三月以後造らるべきの旨重ねて治定すと。
   仍って今日前の武州その所に監臨せしめ給うの間、諸人群集し、各々土石を運ぶ  と。


 ⇒※ 路普請は4月中に完工せず、泰時は再度現場に出て、人夫を激励している。



B 《 1241年 (仁治2年) 5月14日 辛丑 》 の条

  5月14日 辛丑

   六浦路造るの事、この間頗る懈緩す。今日前の武州監臨し給う。
   御乗馬を以て土石を 運ばしめ給う。
   仍って観る者奔営せざると云うこと莫し と。
 


 ⇒※ 泰時は自分の乗ってきた馬で土石を運搬してので、人夫は一層工事に励んだ。
この朝夷奈切通の工事は相当いそいだ工事の様子が伺えるので、この時月に竣功してと推測出きる。


仁治元年には、泰時の道路整備事業の一環として、「建長寺・円覚寺前の山ノ内峠道、巨福呂坂道も整備された。