「冷泉為相」(れいぜん ためすけ) 卿は為家の子で、従二位中納言になった。 和歌所の事で兄の為氏と争論の結果、その母 阿仏尼と共に鎌倉にきて鎌倉幕府に訴訟を提訴した。 為相は鎌倉の「藤ケ谷」に居宅を定めたので、人々は為相を「藤谷殿」と呼んだ。 『藤谷百首』と呼んで世に伝えられている和歌は、此の地にて為相か詠んだものであるかである。 『綱引地蔵(あみひき じぞう)」 は 為相 が建立したものである と言う。 冷泉為相の墓は、網引地蔵の後方の山の頂上にある五輪塔がそれである。 『月巌寺殿玄国昌久』の八文字が彫ってあったと言う。 今 その彫刻文字は摩滅してしまってその字体は判読出来ない。 昭和四年三月 鎌倉町青年団 |
藤原定家の孫で 為家の子、為輔といった。 為相の母・阿仏は、為家の先妻の子・為氏と所領の播磨国細川荘の 相続争いの訴訟のため鎌倉に下向した。この時の紀行と鎌倉滞在記 が『十六夜日記』である。 訴訟の経緯・結果 ⇒ 「阿仏邸旧蹟」の項 記述の通り。 為相も度々鎌倉に赴き、阿仏の死後、鎌倉・浄光明寺旧境内の 藤ケ谷に客居し、鎌倉の武家社会と交わり、和歌や連歌を教授し、 鎌倉歌壇の指導者と仰がれた。 「藤谷殿」、「藤谷黄門」と呼ばれた。 冷泉家の祖となった。 『藤谷和歌集』(『為相卿百首』)がある。 嘉暦3年、鎌倉で没し、藤ケ谷を望む山頂近く葬られたと云う。 | |
藤原定家並びに阿仏と為相の関係については ⇒ 「阿仏邸旧蹟」の項の『御子左家略系図」をご参照下さい。 |
浄光明寺の阿弥陀堂は以後の丘陵にあり、 安山岩製宝篋印塔である。 塔は徳川光圀(1628〜1700)の建立と伝えるが、 基礎の様式や基台及び屋蓋がさほど丈高でない塔婆 から、塔そのものは南北朝ごろに造立されたもので 光圀建立との伝えは、この塔を光圀が、修理又は 他所からの移転を意味することかもしれない。 新編相模風土記稿は『五輪塔なり、高五尺五寸、 月巌寺殿玄国昌久 刻す、』というように、墓7は もと五輪塔であったと記しているが、絵図類でよく 宝篋印塔が書きにくいため、宝篋印塔であっても 五輪塔を書く例がおおいことから、風土記稿の誤り であるかもしれない。 塔は基礎から総高153.5糎。 本来の相輪を欠き、宝珠・請花でけの類似の 相輪をのせている。 また、 基礎の下半分に輪郭をめぐらし、二区の各々 に格挟間を刻み、上半部にある反り花の四隅 の弁はふくらんで、よく時代相を表しているが、 塔身には四方仏ないしはそれを表わす梵字は みられない。 出展 ; 「鎌倉国宝館図録 第13集 (鎌倉の史跡)」 |
・ 年 代 正和二年(1313・鎌倉時代) ・ 技 法 丸彫 ・ 寸 法 像高 85糎 ・ 所在地及び所有 扇ケ谷二丁目12番1号 浄光明寺 ・ 指 定 昭和45年11月11日 浄光明寺阿弥陀堂背後の山腹のやぐら内に安置。 像は安山岩製、台座は別石。 右手に錫杖(現在は欠失)をもち、左手掌に宝珠を棒持 する通常の坐像である。 ひきしまった面部・衣のひだの刻出の深い胴部と膝部 など全体に写実性が強く彫技は神経がゆきとどき、量 感にも富むうえ、背面に次の銘文が陰刻されている。 『供養導師性仙長□」正和二年十一月 日」 施主□覚」大工宗□』 この像についての、「新編相模風土記稿」で記事 『仏殿の後ろ山石窟の内に安ず、石像長2尺5寸、 古昔由比の海浜にて漁父が網にかれて引あげしより 此唱ありと云う。此像一説には藤原為相が建立とも 云う。背に供養導師性仙長老正和元子年十一月日、 施主真覚』とあり。付け加えて 『按ずるに性仙は、当時の前住ならん、又円覚寺 の鐘楼にも、性仙の名見えたり』と考証している。 (以下省略) 出展 ;写真(富岡畦草)「石のかまくら」 ;文 (三山進)「鎌倉の文化財・第5集】 |