藤谷黄門遺跡 (fugiya-koomon-iseki)の石碑文の説明


☆ 藤谷黄門遺跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   「冷泉為相」(れいぜん ためすけ) 卿は為家の子で、従二位中納言になった。
  和歌所の事で兄の為氏と争論の結果、その母 阿仏尼と共に鎌倉にきて鎌倉幕府に訴訟を提訴した。
  為相は鎌倉の「藤ケ谷」に居宅を定めたので、人々は為相を「藤谷殿」と呼んだ。

   『藤谷百首』と呼んで世に伝えられている和歌は、此の地にて為相か詠んだものであるかである。

   『綱引地蔵(あみひき じぞう)」 は 為相 が建立したものである と言う。

   冷泉為相の墓は、網引地蔵の後方の山の頂上にある五輪塔がそれである。
  『月巌寺殿玄国昌久』の八文字が彫ってあったと言う。
   今 その彫刻文字は摩滅してしまってその字体は判読出来ない。

          昭和四年三月
                                      鎌倉町青年団




【人物紹介】
冷泉為相 (れいぜい ためすけ)   1263〜1328(弘長3年〜嘉暦3年)

 藤原定家の孫で 為家の子、為輔といった。

 為相の母・阿仏は、為家の先妻の子・為氏と所領の播磨国細川荘の
 相続争いの訴訟のため鎌倉に下向した。この時の紀行と鎌倉滞在記
 が『十六夜日記』である。
    訴訟の経緯・結果 ⇒ 「阿仏邸旧蹟」の項 記述の通り。

  為相も度々鎌倉に赴き、阿仏の死後、鎌倉・浄光明寺旧境内の
 藤ケ谷に客居し、鎌倉の武家社会と交わり、和歌や連歌を教授し、
 鎌倉歌壇の指導者と仰がれた。
 「藤谷殿」、「藤谷黄門」と呼ばれた。 冷泉家の祖となった。
 『藤谷和歌集』(『為相卿百首』)がある。

  嘉暦3年、鎌倉で没し、藤ケ谷を望む山頂近く葬られたと云う。

(註) 為相の没した地について

   《御子佐系図》には…「嘉暦三於関東薨」とあり。《常楽記》には…「嘉暦三年七月十六日冷泉中納言為相卿於京都逝去」とある。


藤原定家並びに阿仏と為相の関係については ⇒  「阿仏邸旧蹟」の項の『御子左家略系図」をご参照下さい。


【史跡 冷泉為相の墓】

 浄光明寺の阿弥陀堂は以後の丘陵にあり、
 安山岩製宝篋印塔である。
 塔は徳川光圀(1628〜1700)の建立と伝えるが、
 基礎の様式や基台及び屋蓋がさほど丈高でない塔婆
 から、塔そのものは南北朝ごろに造立されたもので
 光圀建立との伝えは、この塔を光圀が、修理又は
 他所からの移転を意味することかもしれない。

  新編相模風土記稿は『五輪塔なり、高五尺五寸、
 月巌寺殿玄国昌久 刻す、』というように、墓7は
 もと五輪塔であったと記しているが、絵図類でよく
 宝篋印塔が書きにくいため、宝篋印塔であっても
 五輪塔を書く例がおおいことから、風土記稿の誤り
 であるかもしれない。

  塔は基礎から総高153.5糎。
  本来の相輪を欠き、宝珠・請花でけの類似の
  相輪をのせている。 また、
  基礎の下半分に輪郭をめぐらし、二区の各々
  に格挟間を刻み、上半部にある反り花の四隅
  の弁はふくらんで、よく時代相を表しているが、
  塔身には四方仏ないしはそれを表わす梵字は
  みられない。


    出展 ; 「鎌倉国宝館図録 第13集 (鎌倉の史跡)」

【 史跡 冷泉為相の墓 】 の 現 況 について 
            ⇒ 「史跡 冷泉為相の墓 情景写真」
を紹介。


【網 引 地 蔵 】(鎌倉市指定文化財)

   ・  年 代   正和二年(1313・鎌倉時代)
   ・  技 法   丸彫
   ・  寸 法   像高 85糎
   ・  所在地及び所有   扇ケ谷二丁目12番1号
                      浄光明寺
   ・  指 定   昭和45年11月11日

  浄光明寺阿弥陀堂背後の山腹のやぐら内に安置。
 像は安山岩製、台座は別石。
 右手に錫杖(現在は欠失)をもち、左手掌に宝珠を棒持
 する通常の坐像である。
 ひきしまった面部・衣のひだの刻出の深い胴部と膝部
 など全体に写実性が強く彫技は神経がゆきとどき、量
 感にも富むうえ、背面に次の銘文が陰刻されている。
  『供養導師性仙長□」正和二年十一月 日」
   施主□覚」大工宗□』

 この像についての、「新編相模風土記稿」で記事
  『仏殿の後ろ山石窟の内に安ず、石像長2尺5寸、
 古昔由比の海浜にて漁父が網にかれて引あげしより
 此唱ありと云う。此像一説には藤原為相が建立とも
 云う。背に供養導師性仙長老正和元子年十一月日、
 施主真覚』とあり。付け加えて
 『按ずるに性仙は、当時の前住ならん、又円覚寺
 の鐘楼にも、性仙の名見えたり』と考証している。
                        (以下省略)
    出展 ;写真(富岡畦草)「石のかまくら」
        ;文  (三山進)「鎌倉の文化財・第5集】 


【 網 引 地 蔵 】 の 現 況 について ⇒  「網 引 地 蔵 情 景 写 真 」 を紹介。

網引地蔵 はほかに、「満干地蔵」、「いぼとり地蔵」とも呼ばれる。
    これは、像の後ろの水溜石が、由比ガ浜の潮の満ち干きに応じて、中の水も満ちたり干いたりする怪事にもとづく。
    今も後ろの水溜石には、一滴、二滴と、山の湧き水が落ちている。 … (省略) …
    また、昔、このやぐら内にたくさんの写経石があり、いぼが出来るとこれを持って行って、こするといぼは
    ころりととれたという。 「いぼとり地蔵」と、呼ばれたという。
      さて、像の背中には、挿込用の切目がある。もとは、石造りの光背がその切目にはまっていたらしいが、
    破損し、現在、光背は当寺(浄光明寺)が保管している。   
                   《清泉女学院郷土研究部「地蔵を求めて、鎌倉廿四所地蔵尊の研究」鎌倉二十五号》


網引地蔵 は藤原為相が建立 した。
   為相が鎌倉に下向して住したのは、網引地蔵の北西に位置する藤谷とされる。

   為相が為氏との争いで勝訴したのは、正和二年七月二十日のことであった。裁判勝訴と網引地蔵 造立の年が一致する

   ことから、七月の判決後すぐに網引地蔵の造立を発願し、11月に完成したと考られる。

    この年は、北條長時の50回忌の年でもある。

   網引地蔵背後のやぐら奥壁の納骨用のがんに長時は葬られた可能性は高い、長時の法事が行われた「泉谷新御堂」が

   やぐらであるならば、この網引地蔵やぐらが、長時の墓所と考えられる。

    長時は和歌にも造詣があり、長時の子・義宗、孫の久時も和歌の才能があり、藤原為家との京都ての交流が考えられる。

   為相は鎌倉下向にあたり、赤橋家をたより、赤橋家ゆかりの浄光明寺の近くに居を定めたのでは…。

   結果的にそれが裁判の勝訴につながり、恩に報いる為に丁度長時50回忌に当るこの年に、長時の墓所に

   この網引地蔵 を造立したのではないだろうか…  と、

  大三輪龍彦氏は「浄光明寺敷地絵図の研究」で考証されている。