相馬次郎師常墓 (sooma-jirou-haka)の石碑文の説明


☆ 相馬次郎師常墓跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   相馬次郎師常 は、千葉介常胤の第二子で、相馬氏を継ぎ、巽荒神社の辺に邸宅を有していた。

   元久二年(1205年)十一月十五日、六十七歳で端座し、合掌したままで極楽往生をとげた。
   佛縁をもつ僧侶や俗人が多数集まって、その師常を礼拝したという。

      岩谷窟の中の宝筺印塔は師常の墓である。

        昭和七年三月 建
                                 鎌倉町青年団




【人物紹介】
相馬師常 (そうま もろつね)      1139〜1205(保延5年〜元久2年)

頼朝の重鎮千葉常胤つねたねの子で相馬氏の祖の武将。
母は秩父重弘の娘、6人兄弟(千葉系図では7人)の次男で相馬小次郎と称す。
下総国相御厨、陸奥国行方郡内等を支配。
治承4年 (1180年)9月 頼朝挙兵のさい父常胤と共にこれを助けた。
元暦元年 (1184年)2月 源範頼に属し、一の谷を攻撃。
文治5年 (1189年)8月 奥州征伐に随って戦功をあげ、奥州行方郡を給されている。
元久2年 (1205年)11月15日没。    「常心」と号した念仏行者。
《 「 吾 妻 鏡 」 の ペ ー ジ  》  を ご 覧 下 さ い 。



千 葉 氏 系 図・相 馬 氏 の 略 系 図 に つ い て。

  千 葉 氏 系 図  (群書系図部類)     相 馬 氏 の 略 系 図  



相 馬 氏 の 居 館 に つ い て。
     寿福寺門前の相馬天王社(明治2年に八坂神社に改名)には師常が祀られている。

                            「八坂大神」(鎌倉市扇ガ谷1−13−45)

  八坂大神境内にある「相馬天王」石碑     八坂大神(相馬天王社)・巽神社  
この辺に千葉常胤・相馬師常の居館があった

相馬氏累代の居館は古くから 茨城県北相馬郡守谷城跡と推定されている。

また千葉県我孫子市及び柏市隣接の根戸北星神社東戸隣の法華坊遺跡を相馬氏総領家の館とする説

もある。いずれにしても、伝承と推測の域で いまだ確証はえていない。

 
「史跡 相馬師常墓やぐら」 (鎌倉時代) に つ い て。

   ( 扇ガ谷二丁目、浄光明寺裏山の西山裾にある。 )


 やぐらは蒼ケを持つ大型の形式で、玄室内奥壁中央部に大きな龕が造られている。この龕には師常の遺骸、あるいはかっての相馬天王社

 の神輿が納められていたと伝えるがその真偽は詳らかでない。

 蒼ケ部、玄室部の何れにも崩落はなく、石塔類にも風化などなく龕の閉塞石も移動された形跡はない。

 鎌倉の中でも極めて特色ある形態である。

 類似のやぐらとしては、「寿福寺境内の源実朝の墓」、「浄光明寺裏山の網引地蔵やぐら」がある。

                       《 出展;「鎌倉の文化財 第19号 (鎌倉市教育委員会発行)による 》


↑  浄光明寺裏山の西山裾・相馬師常墓          ↑  やぐらの中の宝筺印塔 (師常の墓)