東勝寺旧跡 (tousho-ji-kiuseki) の歴史

 東 勝 寺 開 創 の 時 期          

  1. 開山は栄西の弟子の 退行行勇開基は第3代執権 北條泰時とするが時期は未詳である。

  2. 退行行勇(1163〜1241年)。北條泰時(1183〜1242年)。

    寺は青竜山と号して臨済禅と密教の兼修寺院で、関東十刹の一つであった。

  3. 天台宗・寶戒寺の背後、東南方の二つの谷からなり、この一帯を葛西ケ谷という。


  4. 『玉舟和尚鎌倉記』(1638年〜1648年成立)に以下の記述がある。
      「一東勝寺 法界寺ノ後也。 平高時載腹ノ寺也。 今ハ礎モ無之。但高時ノ一門時ニ載腹ノ人々ノ塚
      アリト云ウ」
      と記録されていることから古くから東勝寺跡の伝承があったようである。


 東 勝 寺 全 焼 と そ の 後 の 再 興 ・ 廃 絶 歴 史          

  1. 元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞に攻められて、北條高時以下、北條一門はこの東勝寺で自尽し、鎌倉幕府は滅亡した。


  2. 『太平記』巻第十「鎌倉兵火事」
      「去程に余煙四方ヨリ吹懸テ、相模入道殿ノ屋形近ク火懸リケレバ、相模入道殿千余騎ニテ、葛西ガ谷ニ引籠リ
      給ケレバ、諸大将ノ兵共ハ、東勝寺ニ充満タリ、是ハ父祖代々ノ墳墓ノ地ナレバ、爰ニテ兵共ニ防矢射サセテ
      心閑ニ自害セン為也」
    『太平記』巻第十「高時#一門以下等勝寺自害事」
      「ハジテ其門葉タル二百八十三人、我先ニト腹切テ、屋形ニ火ヲ懸タレバ、猛炎昌ニ燃上リ。黒煙天ヲ掠タリ。(中略)
      死骸ハ焼テ見ヘネ共、後ニ名字ヲ尋ネレバ、此一所ニテ死スル者、ハテ八百七十余人也。
      此外門葉・恩顧ノ者・僧俗・男女ヲ不云、聞伝々々泉下ニ恩ヲ報ル人、世上ニ促悲ヲ者、遠国ノ事ハイザ不知、
      鎌倉中ヲ考ルニ、ハテ六千余人也、嗚呼此日何ナル日ゾヤ。
      元弘三年五月二十二日ト申ニ、平家九代繁昌一時ニ滅亡シテ、源氏多年ノ蟄懐一朝ニ開ル事ヲ得タリ。」

    これによって、東勝寺は全焼したと推定出来る。

  3. 東勝寺はその後間もなく復興された。。

  4. 義堂周信(1325〜1388年)の『空華日用工夫略集』による。

  5. 文明十八年(1468年)以前に再び衰微・廃絶した。


  6. 永正頃(1504〜1521年)再興された。。


  7. 元亀四年頃(1573年)より廃寺になったと考えられている。



 東 勝 寺 跡 の 発 掘 調 査          

  1. 昭和50年(1975年)2月と翌年の昭和51年(1976年)12月に行われた発掘調査。

  2. 「鎌倉市心身障害児通園センター」の建設目的で、腹切やぐらの南西・もとテニスコート附近。

  3. 平成8年度(1996年)に行われた発掘調査。


  4. 【小規模な岩盤上に客殿と推定される掘立柱建物遺構が確認された。】

     ↑ 客殿と推定される掘立柱建物跡  (1996年発掘)      ↑ 東勝寺跡 遺構全体図  (1996年発掘)


    【青磁茶碗断片、天目茶碗断面の外中国製陶磁器断欠等一般寺院では見られない貴重な品が発掘された。】

       ↑ 出土した青白磁    (1996年発掘)             ↑ 出土した天目茶碗     (1996年発掘)

    【平成10年度の発掘調査で出土した、白磁梅月文碗・青磁双魚文鉢・褐釉壷】

     ↑ 白磁梅月文碗   (1998年発掘)      ↑ 青磁双魚文鉢  (1998年発掘)      ↑ 褐釉壷 (1998年発掘)


  5. 焼け跡の東勝寺跡は室町時代に綺麗に清掃されて厚く埋め立てられている。
    発掘調査によつて東勝寺が意図的に城郭としての構えに造られていた事が確認・推定された。



 東 勝 寺 跡 は 平成10年(1998年)に国指定史跡に指定されました。