東勝寺旧跡 (tousho-ji-kiuseki)の石碑文の説明


☆ 東勝寺旧跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   元弘三年(1333年)五月、新田義貞の軍が鎌倉に攻め入った時、北条宗時は、小町の邸宅を出て
  祖父 代々の墓所である「東勝寺」に立て籠った

   百五十年の間、賑わい極めた鎌倉の中にある邸宅や店は、すべて一面に焔の海となった。
  北条高時は、この焔煙の渦巻く光景を望見しつつ、一族郎党 総勢 八百七十余人と共に、自刀した
  のであった。

   其の北条氏 執権の終局の惨澹たる一駒は、此の地に於いて演じられたのである。

           大正七年三月 建
                                       鎌 倉 町 青 年 会





【『 腹切やぐら 』(東勝寺跡内)】


宝戒寺後方の屏風山と小富士山に囲まれた葛西ケ谷の奥、東勝寺跡内に『腹切やぐら』がある。
新田義貞の鎌倉攻めで自刀した北條高時はじめ、北條一族の屍を葬ったとされるが、実際の埋葬は釈迦堂ケ谷奥
やぐら群と推定されている。
 ↑  腹切やぐらー前面より撮影(1994年1月4日撮影)     ↑  腹切やぐらー内部より撮影(1994年1月4日撮影)


【『 北 條 高 時 』と やぐら】


御坊ケ谷を経て瑞泉寺裏山に至小路に3穴の『やぐら』がある。
   『お塔やぐら』、若しくは 『お塔ケ窪やぐら』と呼ばれている。
北條高時の墓と伝えられているが、これは伝説にすぎず、古い様式をもつ塔の形式からいって、年代的に合わない。
    ↑  お 塔 や ぐ ら                  ↑  や ぐ ら 内 の 籾 塔