佐々目ガ谷の東南の路傍に、古い石塔が二箇所に建っている。 辻に塔のあるところから 塔の辻というのである。 伝承によると… 「むかし、由比の長者で太郎大夫時忠と言う者がいたが、その愛児が三歳の時、鷲にさらわれて 何処に行ってしまったか行方しらずとなる。 愛児の父母は悲痛のあまり、そのすべもわからない。 そこ此処で骨の破片や肉の塊を見るにつけて、もしや我が子のものではないかと思って、その所在地に 塔を立てて、供養し冥福を祈った。 是が故に、鎌倉には、処々に塔の辻と云う所があって、ここもその一所である。」と、言う話がある。 或いは、昔の道標であるかもしれないが、そのどちらが真実であるかは知るよしもない。 昭和四年三月 鎌 倉 町 青 年 団 |
◇ 江戸時代の古絵図によると、鎌倉には次の七箇所に「塔辻」または石層塔があつた。
◇ 塔がもともとあった場所 ? について
奈良東大寺の良弁僧正は染屋太郎大夫時忠の子である と云われている。
「藤原の鎌足の玄孫染屋太郎大夫時忠は(奈良東大寺の良弁僧正の父なり)は、
染屋時忠は由井の長者と云われ、甘縄神明社の南の長者久保というところは、時忠の邸の阯
辻々に塔を立てた話
頼朝の法華堂にあった観音像のお腹の中に娘の遺骨を納めた話
甘縄神明社の開基は、染屋太郎大夫時忠であるという話。