塔 の 辻 (toono-tugi-basho) の 石碑文の説明


☆ 塔 の 辻 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   佐々目ガ谷の東南の路傍に、古い石塔が二箇所に建っている。
  辻に塔のあるところから 塔の辻というのである。

   伝承によると…
  「むかし、由比の長者で太郎大夫時忠と言う者がいたが、その愛児が三歳の時、鷲にさらわれて
  何処に行ってしまったか行方しらずとなる。

  愛児の父母は悲痛のあまり、そのすべもわからない。

   そこ此処で骨の破片や肉の塊を見るにつけて、もしや我が子のものではないかと思って、その所在地に
  塔を立てて、供養し冥福を祈った。

  是が故に、鎌倉には、処々に塔の辻と云う所があって、ここもその一所である。」と、言う話がある。

  或いは、昔の道標であるかもしれないが、そのどちらが真実であるかは知るよしもない。

       昭和四年三月
                                   鎌 倉 町 青 年 団




◇ 江戸時代の古絵図によると、鎌倉には次の七箇所に「塔辻」または石層塔があつた。


建長寺前円覚寺前・浄智寺前・鉄ノ井辺(鉄観音堂前)・ 下馬ノ塔・小町宝戒寺南・佐々目谷ノ東南道端


       ・・・・・・・・・・
     『塔辻ハ。佐佐目谷ノ東南道端ニニ所ニ石塔有。鎌倉ニ此ノ類ノ塔多シ。辻ニアレバ塔辻ト云。
      建長寺。円覚寺ノ前。又雪下鉄観音ノ前。又小町口ニモアリ。
      東鑑等ノ古記ニ。塔ノ辻ト指ハ皆小町口ヲ云ナリ。   ・・・・(以下省略)・・・・』
               《   出展 ; 『新編鎌倉志 巻之五(第八冊)』   》
       ・・・・・・・・・・


◇ 塔がもともとあった場所 ?  について

『星月夜の鎌倉と塔の辻』(さし亀子著)でこう述べております。一部を引用してみます。


「塔の辻は下馬塔として使われたと言われています。

塔は13世紀の後半に、建長寺、円覚寺、浄智寺、浄妙寺の前に移動されたと考えます。

 建長寺、円覚寺、浄智寺、浄妙寺の前にあった塔を取り去って、新しく塔がもともとあった近くの辻の場

所を次の様に 想像してみました。


 (1) 浄妙寺の前にあった塔は大倉幕府跡の前、

    八幡宮前の県道と赤山へ行く道の辻。

 (2) 宝戒寺前。小町と大倉の辻。

 (3) 鉄の井戸。岩屋不動の通りと八幡宮前の辻。

 (4) 旧道巨福呂坂と今宮前の辻。

 (5) 旧道巨福呂坂山中。扇が谷に向かう辻。

 (6) 旧道巨福呂坂の降り口。建長寺の前。

 (7) 亀ケ谷切通と県道の辻。』




【人物紹介】 


◇ 染屋太郎大夫時忠 と その伝承 について
奈良東大寺の良弁僧正ろうべんは染屋太郎大夫時忠の子である と云われている。

      「大山寺の開基良弁は、鎌倉由伊郷の人、俗姓漆部氏、当国良将染屋太郎大夫時忠の子である。」

      と、『大山寺縁起』に記されている。


「藤原の鎌足の玄孫染屋太郎大夫時忠は(奈良東大寺の良弁僧正ろうべんの父なり)は、

   文武天皇の時代(697〜707年)から聖武天皇の神亀年中(724〜729年)までの間 鎌倉に居住し、

   関八箇所の総追捕使にて、東夷を鎮め国家を守り奉る。」と、

      『詞林采葉抄』に記されている。


染屋時忠は由井の長者と云われ、甘縄神明社の南の長者久保というところは、時忠の邸の阯

   であるという。


辻々に塔を立てた話

   長者(染谷そめや)太郎大夫時忠の愛児が3歳の時に鷲にさらわれ、探し求めても見つからなかった。

   父母の悲痛は大変なもので、散らばった骨片や肉の塊がある『これが我が子の骨か、あれが

   我が子の肉か』と思い、その場所に塔を立てて供養し冥福をいのった。


頼朝の法華堂にあった観音像のお腹の中に娘の遺骨を納めた話

   現在、「西御門・来迎寺」の如意輪観音のお腹の中に、一人娘を失った染屋太郎大夫時忠は

   せめてもの供養にとその遺骨をこの観音像のお腹の中に納めたという事です。

   今もその骨と言われるものが、箱に収められてこの来迎寺に保存されています。


       (注) 如意輪観音像は、南北朝時代の作で、もとは「光福寺(廃寺)の如意輪堂にあったものが、「頼朝の

          法華堂」に移り、その後この「来迎寺」に移った像です。

           この寺の「地蔵菩薩像」は、永徳4年(1384年)・宅間浄宏作である。

          もと「報恩寺」の本堂にあり、「太平寺」から「法華堂」に移り、後にこの来迎寺に遷さました。


   ※ 一説には、室町時代の鎌倉公方の3歳の息子の骨だとされています。


甘縄神明社の開基は、染屋太郎大夫時忠であるという話。

   甘縄神明社は天照大御神を祀る神社です。

   神社の縁起によると、奈良時代の和銅わどう年間(708〜715年)にこの辺りの豪族の染屋太郎大夫時忠が

   建てた鎌倉で一番古い神社だといわれ、 長谷の鎮守ちんじゅです。

    この甘縄明神としての、甘縄院は明治20年頃まで残存していた。


        ・・・・・・
染屋太郎大夫時忠は、縁起以前から 鎌倉に存在した伝説上の始祖的人物とされ、

その生没年未詳であ。


染屋太郎大夫時忠邸跡のページを併せ参照、お願いします。