『吾妻鏡』 における 比企尼の住居 と 比企能員邸 の記述


比企能員邸にかんする『吾妻鏡』における記述・・・

石碑では比企能員は比企尼と比企ケ谷の邸宅に共二に居住していたとあるが、

『吾妻鏡』における記述をみると比企能員は比企尼と共にこの比企ケ谷の邸宅に居住していた時もある

かも知れぬが、比企能員邸は比企谷とは別に大きな邸宅を構えていたと指定出来る。

時期により、@ 東御門の邸 A 小町大路の邸 の二箇所が思考される。




(1) 比企の尼の住居について  【 その一 】

 《治承元年(1182年)7月12日 庚辰 》 の条 

治承元年(1182年)7月12日 庚辰 


御台所御産の気によって、比企谷殿に渡御す。
御輿を用いられる  …以下省略…


《 文  説 》

治承元年(1182年)7月12日 庚辰 
北條政子は男子(頼家)  出産のために比企谷殿にお移りになる。


比企谷殿と敬語を使っている。

    如何に比企尼が信頼されていたかを知ることが出来る



(1) 比企の尼の住居について  【 そのニ 】

 《治承元年(1182年)8月12日 庚戊 》 の条 

治承元年(1182年)8月12日 庚戊 霽る。酉の剋、


御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闇梨良せん・大法師観修。 …以下省略…
戌の剋、河越太郎重頼が妻(比企尼の女)召によって参入し、御乳付に候ず。

《 文  説 》

治承元年(1182年)8月12日 晴れる
午後6時 頼家 誕生する。(父頼朝 36歳 母政子 27歳  である。)


比企能員の娘が御乳付けとなる。




(1) 比企の尼の住居について  【 その三 】

 《文治2年(1186年)6月16日 壬戊 》 の条 

文治2年(1186年)6月16日 壬戊


ニ品並びに御台所、比企尼が家に渡御す。
この所は樹陰納涼の地たり。
その上くわ園興あるの由申さしむるによってなり。御遊園終日と云々。


《 文  説 》

文治2年(1186年)6月16日
頼朝・政子夫妻が比企尼の家を訪れて終日遊園している

陰暦6月の夏季である、当時も現今と同様にこの「比企ケ谷・妙本寺」は納涼の地であったことが理解できる。


文治3年(1187年)9月9日 頼朝・政子夫妻はこの比企の家にて菊を観、終日酒宴をしている。




 《文治3年(1187年)9月9日 丁未 》 の条 

文治3年(1187年)9月9日 丁未


比企尼の家の南庭に白菊開敷せり。外においてはいまだこの事あらず。
よって今日、重陽を迎え、ニ品並びに御台所、かの所に渡御す
義澄・遠元以下宿老の類、御共に候ず。御酒宴終日に及び、あまりさえ御贈物を献ずと云々。







(2) 比企能員の邸について  【 その一 東御門辺りの邸 】

 《文治元年(1185年)9月1日 辛巳 》 の条 

文治元年(1185年)9月1日 辛巳 


廷尉公朝、勅使として営中に参ず。ニ品対面したまひ、盃酒を勧めらる。 …以下省略…
藤判代邦通をもって御使となして、長絹二十疋、紺絹三十端をかの宿所
【比企四郎が東の御門の宅と云々。】に送らる。


《 文  説 》

治承元年(1182年)7月12日 庚辰 
北條政子は男子(頼家)  出産のために比企谷殿にお移りになる。


比企谷殿と敬語を使っている。

    如何に比企尼が信頼されていたかを知ることが出来る



(2) 比企能員の邸について  【 そのニ 】

 《治承元年(1182年)8月12日 庚戊 》 の条 

治承元年(1182年)8月12日 庚戊 霽る。酉の剋、


御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闇梨良せん・大法師観修。 …以下省略…
戌の剋、河越太郎重頼が妻(比企尼の女)召によって参入し、御乳付に候ず。

《 文  説 》

治承元年(1182年)8月12日 晴れる
午後6時 頼家 誕生する。(父頼朝 36歳 母政子 27歳  である。)


比企能員の娘が御乳付けとなる。