比企能員址 (hiki-yoshikazu-ato)の石碑文の説明


☆ 比企能員址の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

  「比企能員」は頼朝の乳母(うば) 比企禅尼の養子として、禅尼と共に 此の地に住んでいた。
   此の地を「比企ケ谷」と呼ぶのはこのためである。
   比企能員 の娘は、二代将軍 頼家 の寵愛を受け「若狭局」と言う。男子 「一幡」を産んだ。

   建仁三年(1293年)、頼家 が病気のとき、母 北条政子 は、天下の地頭を二分して、
  関東の地頭職を頼家の子の一幡 に、関西の地頭職を頼家の弟の「千幡(実朝)に分けて継がせようと企画した。
   能員はこのことに怒り、密かに北条氏 打倒を計画した。

  この 秘密計画が露見して 北条氏によって、比企一族は滅亡されてしまった。

          大正十二年三月 
                                       鎌 倉 町 青 年 団  建




【人物紹介】
比企能員 (ひき よしかず)      ? 〜1203( ? 〜建仁3年)

 鎌倉前期の武将。 比企藤四郎と称す。父母は不明。
 源 頼朝の乳母比企尼の養子。 阿波の国の人という。
 義兄比企朝宗が没したのち比企氏を継ぐ。養母の縁から源 頼朝に従った。
 寿永元年(1182年)10月に頼家が生まれるとその乳母夫に任ぜられる。
 元暦元年(1184年)5月、頼朝の命により、和田義盛とともに源 義孝残党討伐のため信濃に
 発向し、同年8月、平家追討のため源 範頼に従って西海に下向、
 翌文治元年(1185年)正月、九州に渡った。
 同年6月には鎌倉におり、頼朝と平宗盛対面の際の取次ぎを勤めた。

同 文治5年7月、奥州征伐には北陸道大将軍として、宇佐美実政と出羽国を平定する。

翌 建久元年(1190年)正月、大河兼任が出羽で挙兵した際には、上野・信濃の兵を率いて出陣した。

同 建久元年(1190年)11月の頼朝上洛に供奉し、側近として信任が厚く、右衛門尉・上野・信濃守護

となった。

頼朝没後の正治元年(1199年)4月、宿老として十三人の合議制の一人に加えられ、同年11月の梶原景時

の排斥にも加担した。


【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による



 ⇒ 建仁3年(1203年)9月2日、仏事にかこつけて誘い出された能員は北條義時の名越亭で

    天野遠景・仁田忠常に殺害され、翌日比企一族も一幡とともに滅亡した。



 ☆ 比企能員邸跡についての考察

比企尼の邸は現在の比企ケ谷・妙本寺の境内の地と見て誤りではない。

比企能員は比企尼と共に居住しておらず、次の2箇所が吾妻鏡の記述から指定出きる。


【T】 頼朝邸の東御門の辺りの比企能員の邸

【U】 小町大路にそった比企能員の邸


 ⇒ 比企能員邸跡についての考察は、 《八幡義生氏の『比企能員邸の考察』》 をご覧下さい。


《八幡義生氏の『比企能員邸の考察』「武蔵野」第52巻2号(昭和49年3月号)を参考する》