「比企能員」は頼朝の乳母(うば) 比企禅尼の養子として、禅尼と共に 此の地に住んでいた。 此の地を「比企ケ谷」と呼ぶのはこのためである。 建仁三年(1293年)、頼家 が病気のとき、母 北条政子 は、天下の地頭を二分して、 関東の地頭職を頼家の子の一幡 に、関西の地頭職を頼家の弟の「千幡(実朝)に分けて継がせようと企画した。 能員はこのことに怒り、密かに北条氏 打倒を計画した。 この 秘密計画が露見して 北条氏によって、比企一族は滅亡されてしまった。 大正十二年三月 |
鎌倉前期の武将。 比企藤四郎と称す。父母は不明。 源 頼朝の乳母比企尼の養子。 阿波の国の人という。 義兄比企朝宗が没したのち比企氏を継ぐ。養母の縁から源 頼朝に従った。 寿永元年(1182年)10月に頼家が生まれるとその乳母夫に任ぜられる。 元暦元年(1184年)5月、頼朝の命により、和田義盛とともに源 義孝残党討伐のため信濃に 発向し、同年8月、平家追討のため源 範頼に従って西海に下向、 翌文治元年(1185年)正月、九州に渡った。 同年6月には鎌倉におり、頼朝と平宗盛対面の際の取次ぎを勤めた。 | |
【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による
《八幡義生氏の『比企能員邸の考察』「武蔵野」第52巻2号(昭和49年3月号)を参考する》
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