絵図集・極楽寺境内絵図 

【 極 楽 寺 境 内 絵 図 】  ( 付 極楽寺の変遷)
極楽寺蔵の境内絵図
 上記の絵図についての解説

『図下方の極楽寺切通を経て橋を渡るとニ王門と下馬門があり、ニ王門をくぐると左右に子院の勧学院と僧食堂を配置し、鐘楼・鼓楼・浴室
等を廊でつなぐ四足門がある。その背後には食堂・講堂・方丈(華厳院)と一直線にならび、これらのまわりには東西の金堂・御影堂・玉塔・
五重塔・十三重塔などがあり、奥の山ぎわには本願御墓堂を描き、これら中枢建物の周囲には諸塔頭や稲荷社などの諸堂宇を さらに
病宿・施薬悲田院・馬病屋・癩宿・療病院・薬湯療といった特異な諸屋もみえる。

 このうち十三重塔の建立は正和4年(1315年)7月、  金堂の上棟は元享元年(1321年)であつた。
 そして特異な療病舎があるのは、忍性の救済事業の現われにほかならない。忍性は文永4年(1267年)極楽寺開山として当寺へ請ぜら
れてから37年間にわたり極楽寺に住し、ひろく社会慈善事業に活躍したことは目覚しく、その業績は『本朝高僧伝』に詳しい。

 しかし、壮重に構築された伽藍も、建治元年の罹災はじめ正平12年(1357年)の大風(ニ王門倒壊)、応永32年(1425年)の火事、
永享5年(1433年)の地震(塔の九輪が顛倒)などのため、寺勢を少しずつ失いなから、その規模を縮小していった。その後も、
元亀3年81572年)の被災では講堂および塔頭の仏法寺・福田院・吉祥院を残すのみで諸堂を焼失し、大正12年の震災では山門大破、
本堂半潰、客殿・方丈・庫裡は全潰した《「鎌倉震災誌」》  貞享2年(1685年)の『鎌倉志』掲載の図・・・本堂・門・庫裡らしい建物一宇、と成就院のみ描かれている。
 天保12年(1841年)の『相模風土記』には・・寺臓の境界図二点と天保頃の当寺の寺容を写した図を収めていて、それには塀に囲まれた
総門と本堂・庫裡・寺中(塔頭)を配し、記事では千服茶磨・腰掛松・北條陸奥守重時墓と塔頭の吉祥院・成就院を記し、ほかに稲荷社・
地蔵堂ニ宇・三鈷松・正福寺・文殊堂・阿仏尼亭各跡などをあげている。 ・・・略・・・
 したがつて、上記の絵図は、記録や伝承などをもとにして極楽寺の盛時の姿を偲んで江戸時代に作成されたと考える 
    《以上の絵図の解説執筆は三浦勝男氏・「鎌倉国宝館図録 第15集(「鎌倉の古絵図T」)によります。》
《 極楽寺境内絵図の出典 「極楽寺忍性ゆかりの遺宝」特別展目録 鎌倉国宝館発行  》


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