安達盛長やしき 考 

 【T】 藤九郎盛長屋敷は、甘縄明神 前、東の片 に位置していた。 

中世における安達盛長邸・指定地
《 出典 「中世鎌倉 歴史地図」阿部正道・安田三郎共著 》
中世における安達盛長邸・指定地についての考証


安達盛長邸

盛長は、治承4年(1180年)、頼朝伊豆挙兵当時からの功臣で、頼朝は同年末 早くも甘縄の安達邸を訪れ、

其後の将軍も暫々訪問した。

盛長の孫娘の松下禅尼は、執権北條経時、北條頼時の母となり、一族は当邸に住して繁栄したが、

曽孫 泰盛の代、弘安8年(1285年)11月、北條貞時時、(得宗家被官)平頼綱により滅ぼされた。


千葉介胤綱邸、

元仁元年(1224年)3月19日『丑尅、甘縄山麓以南三町余焼亡、千葉介胤綱家在其中』 《吾妻鏡》





【U】 甘 縄 明 神 宮 


社蔵する正徳2年8月瑞峯祖堂の「相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略」によると伊勢別宮と考えられ、

   和銅3年8月 行基 が草創し、染屋時忠が山上に神明宮、山麓に神輿山円徳寺を建立した。

   祭神 ; 天照大御神、  例祭 ; 9月14日、  


源 頼義が相模守として下向し、上野介 平 直方の娘と結婚し、当社に祈って愛児(八幡太郎義家)に恵まれた。

   源氏との縁が深い神社として信仰をあつめた。

    ・康平6年(1063年)頼義、当社を修復。

    ・永保元年(1081年)義家、当社に修復を加えた。


「吾妻鏡」によると

   文治2年(1186年)10月、当社を「伊勢別宮」と崇敬した頼朝が社殿を修理し、四方に荒垣及び鳥居を立てた。

             ⇒ 「吾妻鏡」の項 参照。


「安達盛長の屋敷址」

   社頭一帯は鎌倉時代初期の武将 安達盛長の屋敷址。盛長は頼朝に重用された重臣で、後の執権北条氏とも

   縁戚関係となった安達氏の基礎を築いた。

   石段下に「北條時宗公産湯の井」がある。

   これは、時宗の祖母松下禅尼が安達氏出身であることから生まれた伝説?であろうか。

             ⇒ 「安達氏・北條関係系図」の項 参照。



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