安達盛長 は藤九郎と称し、頼朝が蛭ガ小島に居たころ、頼朝を支援した。 石橋山の合戦の敗北は、源氏にとって前途 暗澹たる有様であった。 この時 盛長は、頼朝に従って小船に乗り、荒波を凌いで 安房(千葉県)に逃れた。 この甲斐あって、源氏の白幡が鎌倉に還って天下を風靡するに及んで、其の勲功により 重要な職に受容された。 盛長の子 「弥九郎盛景」と。言う。 孫は 「秋田城介義景」 として 代々 この邸宅に 住んでいた。 頼朝以来 将軍が屡 此処を訪問した。 此処はその邸宅ががあった跡は此の地である。 大正十四年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |
平安末・鎌倉前期の武将。 藤原藤九郎 藤原北家魚名流、小野田三郎兼盛(広)の子というが、信憑性は少ない。 頼朝の乳母比企尼の女を妻とし、その関係から頼朝の流人時代より側近となる。 治承4年挙兵の際には、源家譜代家人の招致に力があり頼朝の最も信頼する御家人 の一人であった。 元暦元年頃から上野国奉行人となり国衙在庁に代って国内公領の収税事務を統轄し、 平家討伐に従軍せず、専ら東国において幕府の基盤整備を行ったようである。 文治5年の奥州征伐や頼朝の二度の上洛には供奉した。 正治元年(1199年)正月、頼朝の死により出家。法名 蓮西。 正治頃三河の守護となる。 | |
頼朝が鎌倉に安定の座を占めてからは、甘縄神明社の守護を仰せつかって、社前にを賜り、代々ここに住んだ。 又、大仏切通しより鎌倉に入る重要な道路の守りという役割も担っていた。 何よりも将軍頼朝、尼御台所政子が再三甘縄の盛長宅に止宿したと云う事は、その信任の篤さがわかる。 正治元年4月将軍頼家の下で十三名の合議制の一員となる。 又、梶原影時弾効に当っては、子 景盛とともに弾効状に名を連ねた。 正治2年4月26日、66歳で死去。 近年甘縄神明社下の宅地造成中に、屋敷の一部が発掘され、武家屋敷の構えを知る上で、貴重な資料となっている。 | |
【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による |
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