染谷太郎大夫時忠邸跡(someya-tarou-tei-ato)の歴史

藤原鎌足、鹿島神宮に参拝の途中、「由井ノ宿」にとまる、。

  1. 平安時代編纂の『詩林采葉抄」による「由井ノ宿」は・・・


  2. 大化の改新の主役・藤原鎌足が、常陸の鹿島神宮に参詣でるに来た途中、「由井ノ宿」にとまったと

    される宿が、現在 染谷太郎大夫時忠邸跡の石碑の建っている此の辺り「長谷2丁目3番地」辺に

    当時時忠邸があったとされている。


  3. 江戸時代後期の『新編相模風土記稿』では・・・


  4. 『 今、鎌倉郡中長谷村ニ時忠ガ邸蹟アリ、カツ時忠創建ノ寺院モアリ、思フニ

     此ノ地ニ土着ノ豪族ナランカ 』


        (注) 「時忠創建ノ寺院」のこの寺院は「海光山慈照院(長谷寺)」であるという。

            長谷寺に残る縁起では寺の創建は天平8年(736年)で開基は「藤原房前」とあり、

            此の当時、染谷太郎大夫時忠は鎌倉に居住していたときである。


            聖武天皇が鎌倉に寺を開いて、「十一面観音像」を祀ることを「藤原房前」にめいした。

            「染谷太郎大夫時忠」が長谷寺造営のために「藤原房前」の代理人として鎌倉にきたという。


時忠の娘の屍が如意輪観音座像の胎内に納められている話。

  1. 江戸時代


  2. 八幡宮供僧坊(相承院)が法華堂を管理していた。

             『右大将家 法華堂別当、従古来兼帯仕候

                一 法華堂本尊、三尊阿弥陀像、

                                 台座より惣丈五尺五寸、定朝作

                  同観音勢至立像

                一 如意輪観音座像、

             右、大織冠末葉由井長者染屋太郎大夫時忠造立、西御門如意輪堂(報恩寺)ニ

             安置之所、堂破壊ニ付、法華堂ニ移申候、尤造立年歴相分リ不申候』

                                 《「相模国鎌倉鶴岡一山四箇所由緒写書上」の相承院の項 による》


     如意輪観音座像は報恩寺から同寺の破壊により法華堂に移されたが、明治初年の神仏分離に

       より西御門・「来迎寺」に移管された。現在 来迎寺で拝観する事が出来る。



     
     ← 如意輪観音座像(来迎寺蔵)


    「鎌倉で最も美しい仏像」と云われている。

       全体に福与かに表現され、 官能的である。
       観音像が手に持つ如意宝珠には、願いを
       叶える力があるとと 言われている。
       厄除と安産の守護尊としてのご利益がある。
     
        ・南北朝時代  ・寄木造り  ・玉眼嵌入
        ・像 高  97.5cm
          (衣文に鎌倉地方独特の「土紋装飾」がある)
          粘土、漆等を混ぜて型で抜き、刺繍の文様を
          立体的に表わす技法。
        ・神奈川県指定重要文化財


       「この像に纏わる伝承」

       由比の長者のひとり娘が浜で遊んでいる時
       大きな鷹にさらわれ死体て見つかった
        由比の長者が娘の死を悲しみ、
       その供養に屍を如意輪観音座像納めた、
       胎内にはその幼児のものと思われる
       遺骨が納められている。