飢 渇 畠 (kekachi-hatake-basho-ato)の石碑文の説明


☆ 飢 渇 畠 の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   此処は昔 刑場のあった処である。

   後世 里人 六地蔵 を祀り 又 供養塔 や 芭蕉句碑 等を建てた。

   今、石柵をめぐらして、此の地を整備した。

          大正七年十二月

                               鎌 倉 同 人 会




「六地蔵」の北側、「 裁 許 橋さいきよばし 」方向に鎌倉時代 刑場があった。

永い間 耕作もせず、江戸時代には、 飢 渇 畠 けかちばたけと言って荒地であった。


【新編鎌倉志】 … 「 裁 許 橋 」の南路端なり。此所昔より 刑場の所にて、今も罪人をさらし、

            斬戮する地なり。故に耕作せず。 飢 渇 畠 と名ずく。」 とある。


【相模国風土記稿】 … 「 飢 渇 畠 ト 名 ツ ク ル 古 昔 ノ 刑 罰 場 」 とある。



【 関 連 事 項 】
 六地蔵に建つ【 芭 蕉 の 句 碑 】 について
    六地蔵の 「飢渇畠けかちばたけ の石柵の中に 「 芭 蕉 の 句 碑 」 が建っている。

         『夏草や つわものどもの 夏の跡』

      『いでや をりにふれてこころにおもふ事をいひ出るはいつごろ
      隔夏の高館覧古の詠をしるして爰もふりにし夢の跡へ石碑をたてる
      是なん陸奥の吟はと忍ばんより衆とともに先師の追慕にあたり
      倶霊を弔はんがためかかつは幸に百遊の念に 伝はりし我なからん
      あとのためにもと ともにかたらざらめや   松尾百遊 』


     有名な芭蕉の句であるが、此の句と 此の地との間には、何の関わりはないようである。
     天明六年(1786年)五月に、雪ノ下 在んでいた 松尾百遊氏 が立てたものである。

       この句碑は、昭和四十三年七月の道路拡張工事の際、一時 和田塚に移したが、
       再度、此の地に遷した。