『十六夜日記』における 阿佛邸旧跡 (abumi-tei-kiuseki) の記述

阿佛尼の住まいについての『十六夜日記』における記述・・・

後半の鎌倉での日々を記す「あずま 日記 」の冒頭部分

東にて住むところは、 月影つきかげ谷 やつとぞいふなる。

浦近き山もとにて、風いと荒らし。

山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず、

都のおとずれはいつしかおぼつかなき程にしも、 … (以下省略)。




  この日記の文章すら阿仏尼が住んでいたところは月影ケ谷てあったと言われている。
 この「山寺」は極楽寺であると言われている。が…
 「のどかにすごして」という表現から当時広大な極楽寺の寺域のうちのある塔頭、月影ケ谷にあった月影地蔵四王院つきかげじぞうういん
 法蔵院ほうぞういん無常院むじょういんなどの子院をさしているのではないかという説もある。


この絵図は室町時代の作(寺伝ては1323年作)と云われている《出展;鎌倉国宝館図録 第15集》

 阿 仏 尼 邸 の 旧 蹟 地 の 想 定 地 
 極楽寺の東に熊野新宮くまのしんぐうがある。
これは当時広大な極楽寺の境内の中にあり、
文永6年(1269)に忍性により創建された鎮守社である。
八百屋の前の小道を東にはいり、五、六分歩くと、
熊野新宮がある。

極楽寺東側の道から、極楽寺の西の奥へ住宅街を暫く行くと西ケ谷にしがやつ月影地蔵つきかげじぞうがある(元は月影ケ谷にあった)
月影地蔵の背後ある山の石段を登っていくと、やがて道は細くなるが、 この山の向こう側が月影ケ谷にあたる。山を隔てているが、直線距離では近い。 阿仏尼が住んだのは、この辺りであると考える。

「このうしろの山」という記述は、阿仏が住んでいた邸の背後に山があったことをしめしている。
山からの「聖福寺」と「今熊野」が展望だきたと言っている。「聖福寺」は現存しないが、「今熊野」 は極楽寺の東の熊野新宮の可能性が高い。

極楽寺駅から江ノ島方面に向かい、二つ目の踏切際に「阿仏尼旧蹟」の石碑が建立されている。
この碑の建っているところは阿仏邸のあった処ではない。
道は先で二手に分かれていて、右のゆるやかな登り坂道を5分ほど行くと、小さな石段があり、山麓のやや高台にある
民家で道は行き止まりとなる。 その背後に小さな山があり、その山の向こう側が「月影地蔵」にあたる。
この辺り、地元の人は「月影谷戸やと」と呼んでいる。

月影谷戸に住む人の話では、この高台にある民家の庭には、阿仏尼の使ったという「井戸」があり、今は危倹なため
蓋がしてある と云う。また以前はこの民家の建物の向こう側、山際の崖下に「阿仏尼墓」とされる五輪塔があった
が、崖の工事のため鎌倉市が撤去した という。
《  田淵句美子氏著【十六夜日記(山川出版)】による  》