『吾妻鏡』等 における 聖福寺跡 (chiufuku-ji-ato) の記述
現在、江ノ電「稲村ケ崎」駅の前を北に向かって坂道を登ってゆくと、「正福寺公園」に出る。
この辺りが、「聖福ガ谷」と云い、「正福寺」があつた旧蹟である。
「聖福寺阯・廃寺地図」
を参照。
【聖福寺の建立時期】
(T)『鶴岡八幡宮社務職次第』
に次のような記載がある。>
《 建長6年(1254年)正月28日 》 の条
鶴岡八幡宮ノ神宝ヲ、聖福寺ノ新熊野社ニ移ス
(T)『吾妻鏡』
に次のような記載がある。>
《 建長6年(1254年)4月18日 》 庚申 の条
聖福寺の鎮守諸神の神殿上棟す。
いわゆる、神験・武内・平野・稲荷・住吉・鹿嶋・諏方・伊豆・箱根・三嶋・富士・夷社と云々。
これ惣じては関東の長久、別しては相州の両賢息息災延命のてめなり。
よってかの兄弟両人の名字をもって、寺号に摸せらると云々、去ぬる十二日事始ありと云々。
相模国大庭御庫御厨の内にその地を
卜
ぼく
せらるるところなり。若宮別当僧正大勧進と云々。
《 文 説 》
@ この二つの記録の記載から、聖福寺の創建は、建長6年以前であることが、推定出きる。
A また日本中の主立った神社が「時宗(正寿丸)」と「宗政(福寿丸)」の息災・延命のために勧請され
ている。
B 子息に「寿」の字を付け、息災・延命を特に願って創建した要因は、この時代に地震等の天災や
疫病の流行等社会不安がづき、得宗家での短命者(時氏;28歳、経時;23歳)からの延命への
がことの外強かった、ことが感じられる。
「碑文の内容紹介」
を参照。