聖福寺跡 (chiufuku-ji-ato)の石碑文の説明


☆ 聖福寺跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   「聖福寺」は建長六年(1254年)四月、北条氏が長久に繁栄すること、並びに
  北条時頼の子の 時輔ときすけ (幼名 聖寿丸)   時宗ときむね (幼名 福寿丸) の二人の息災長寿とを願って
  建立された寺で、寺名は両息の名前の一字ずつをとって付けたと伝えられている。

   此の寺が、廃寺になつた年代は不明であるが、聖福寺のあった此の谷の名は、
   今も「聖福寺ガ谷」と呼んでいる。

       昭和九年三月
                             鎌 倉 町 青 年 団 建







【石碑の文節の修正】
   石碑には  『北条時頼の子の 時輔 (幼名 聖寿丸)   時宗 (幼名 福寿丸) の二人の
       息災長寿とを願って』とあるが、

            ↓

       『北条時頼の子の 時宗 (幼名 正寿丸)   宗政 (幼名 福寿丸) の二人の
       息災長寿とを願って』と修正したい。


    下記の【北条氏得宗家の童名による略系図】の紹介を参照願いたい。


時輔 (幼名 宝寿丸)である。聖福寺建立時の宝寿丸は7歳であったが、生母は時頼の妾で

「讃岐局」であったので、別あつかいされた。

のちに時宗が゜執権になったことを不満とし、また対元 交渉などでも時宗と対立するようになり

文永9年(1272年)2月15日、六波羅探題・北條義宗に攻められ京都で殺害さけた。(2月騒動)

時輔、25歳。一説には、吉野山に逃れたともいう。




【北条氏得宗家の童名による略系図】の紹介


【 時宗 (幼名 正寿丸)&宗政 (幼名 福寿丸) 】 の人物紹介


【人物紹介】


北條時宗  (ほうじょう ときむね)      1251年〜1284年 (建長三年〜弘安七年)

父は北條時頼。母は北條重時の女。  
鎌倉甘縄にある叔母松下禅尼宅で1251年5月15日生まれた。幼名は正寿。
正嘉元年(1257)2月26日、将軍宗尊親王の手で元服し、相模太郎時宗と名乗る。
弘長元年(1261)4月3日、故安達義景の女堀内殿を娶る。
文永5年(1268)3月5日、執権に就任する。
弘安4年(1281)6月、元軍、北九州沿岸に攻め来る。7月1日暴風雨で蒙古船は海の藻屑。
弘安7年(1284)3月末病に臥し、4月4日巳刻に最明寺で出家し(法名道杲)同日酉刻
34歳で急死した。法光寺殿と号した。
時宗の墳墓堂は、円覚寺の佛日庵。(円覚寺は開山無学祖元にて弘安5年(1282)開創)

【人物紹介】
北條 宗政  (ほうじょう むねまさ)      1253年〜1281年 (建長五年〜弘安四年)

父は北條時頼。母は北條重時の女。 時宗と同母 弟 。
通称は相模四郎・左近大夫将監・相州親衛。西殿と称された。
建長5年(1253)正月28日生まれ、幼名は鶴岡八幡宮若宮僧正隆弁により、福寿と名付けられる。
文永2年(1265)7月16日、北條政村の女を娶る。
建治3年(1277)6月17日武蔵守、7月4日筑後の守護を兼任。
弘安4年(1181)7月、長門の守護となる。
弘安4年(1181)8月9日、出家、法名は道明。同日没した。29歳


【人物紹介】は 出展;「北条氏系譜人名事典」(北条氏研究会編参照)による