「聖福寺」は建長六年(1254年)四月、北条氏が長久に繁栄すること、並びに 北条時頼の子の 時輔 (幼名 聖寿丸) と 時宗 (幼名 福寿丸) の二人の息災長寿とを願って 建立された寺で、寺名は両息の名前の一字ずつをとって付けたと伝えられている。 此の寺が、廃寺になつた年代は不明であるが、聖福寺のあった此の谷の名は、 今も「聖福寺ガ谷」と呼んでいる。 昭和九年三月 鎌 倉 町 青 年 団 建 |
石碑には 『北条時頼の子の 時輔 (幼名 聖寿丸)
と 時宗 (幼名 福寿丸) の二人の |
父は北條時頼。母は北條重時の女。 鎌倉甘縄にある叔母松下禅尼宅で1251年5月15日生まれた。幼名は正寿。 正嘉元年(1257)2月26日、将軍宗尊親王の手で元服し、相模太郎時宗と名乗る。 弘長元年(1261)4月3日、故安達義景の女堀内殿を娶る。 文永5年(1268)3月5日、執権に就任する。 弘安4年(1281)6月、元軍、北九州沿岸に攻め来る。7月1日暴風雨で蒙古船は海の藻屑。 弘安7年(1284)3月末病に臥し、4月4日巳刻に最明寺で出家し(法名道杲)同日酉刻 34歳で急死した。法光寺殿と号した。 時宗の墳墓堂は、円覚寺の佛日庵。(円覚寺は開山無学祖元にて弘安5年(1282)開創)
⇒ 《北條時宗 ・略年譜》
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父は北條時頼。母は北條重時の女。 時宗と同母 弟 。 通称は相模四郎・左近大夫将監・相州親衛。西殿と称された。 建長5年(1253)正月28日生まれ、幼名は鶴岡八幡宮若宮僧正隆弁により、福寿と名付けられる。 文永2年(1265)7月16日、北條政村の女を娶る。 建治3年(1277)6月17日武蔵守、7月4日筑後の守護を兼任。 弘安4年(1181)7月、長門の守護となる。 弘安4年(1181)8月9日、出家、法名は道明。同日没した。29歳
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【人物紹介】は 出展;「北条氏系譜人名事典」(北条氏研究会編参照)による |