稲 村 ガ 崎 (inamura-saki) の歴史

 頼朝鎌倉入部以前の稲村ガ崎

  1. 治承4年(1180年)8月

  2. 伊豆において頼朝が挙兵した際、三浦一族が頼朝と合流する為にこの稲村ケ岬の経路をとおつた。…《源平盛衰記》

    その後の鎌倉時代
  3. 建久2年(1191年)2月

  4. 頼朝が、二所詣に出発の際、当所で行列を整えた … … … 《吾妻鏡》
    「吾妻鏡のページ」を併せご覧下さい
  5. 貞応2年(1222年)卯月上旬〜

  6. 腰越という平山のあはいを過ぎれば稲村というところあり。
    険しき岩の重なり臥せる浜をつたひ行けば、岩にあたりてさきあがる浪の花の如くに散りかかる … … … 《海道記》

 新田義貞と稲村ガ崎

  1. 元弘3年(1333年)5月22日

  2. 鎌倉時代には、「鎌倉の西の境」として霊仙山から稲村ガ崎まで山が連なり、鎌倉への通行を遮っていた。
    新田義貞は極楽寺坂からの鎌倉攻めは無理と判断し、この稲村ケ崎の徒歩進軍を行おと考えた。
    義貞は、黄金作りの太刀を捧げて海中に投げ入り、海が神に祈った。
    すると、その夜、潮が引き始め、北條の船は沖もに押し出され、干潟が現れ、義貞の武士達はときの声をあげて、
    攻め込むことが出来、鎌倉幕府滅亡を決定的にしました。

    仏法寺跡(五合桝遺跡)
    仏法寺の写真
    「太平記」





    【文部省唱歌 『鎌倉』の一部】

     七里ケ浜の磯伝い  稲村ケ崎  名将の剣投ぜし  古戦場


    【仏法寺跡 『五合桝遺跡』】

    「五合桝」と呼ばれる桝形遺構のある平場は、成就院の真上にあり

    真下に極楽寺を見下ろし、また眼下に鎌倉の海と市街地が一望できる。

    元弘3年(1333年)の鎌倉攻めに際し激しい攻防が行われた事が伺える。

    発掘調査の結果、鎌倉を守る要衝の地であり、霊山の名に相応しい地

    であった事が理解できる。(霊山山頂北側の雛壇平場からは多数の

    石塔類・火葬骨が出土し、供養に係わる場であった事が推察される。)


    ↑写真出展;「五合桝遺跡(仏法寺跡)発掘調査の概要《鎌倉市教育委員会発行》による。


  3. 実際には、稲村ガ崎の海岸から鎌倉入りしたと言うより、この霊仙山の仏法寺辺りで新田軍が北條陣を攻め落とし、

  4. 一気に鎌倉に攻め込んだ事だろうと思われます。

 コッホ博士の記念碑

  1. 明治41年(1908年)のコッホ博士の來 鎌倉を記念して、記念碑を大正元年(1912年)建立

  2. 鎌倉時代には、「鎌倉の西の境」として霊仙山から稲村ガ崎まで山が連なり、鎌倉への通行を遮っていた。
    1912年、コッホ博士来日の記念碑がコッホ博士が海や山の眺めが気に入っていた霊仙山に建立された。
    1983年、コッホ博士の結核菌発見100年を機に霊仙山から現在の稲村ケ崎に移された。

        コ ッ ホ 博 士 の 記 念 碑

    コッホ博士の記念碑の写真
    記念碑・霊仙山山頂に建立


    コッホ博士は、医学者で細菌学の祖と言われ、結核菌・コレラ菌を発見、
    ツベルクリンの発見などで、人類に大きな貢献をした。

    日本の北里柴三郎はドイツ留学でコッホに学び、ジュフテリア血清李療法

    を発見、その北里博士の招きで、1908年6月にコッホ博士は来日した。

    その鎌倉来遊を記念しして、1912に霊仙山山頂に記念碑は建立された。


    大正12年(1923年)の関東大震災で霊仙山は崖崩れを起こし、

    記念碑も前に崩れたが、すぐに建て直された。


    記念碑・稲村ガ崎に移転


    1983年、11月コッホ博士の結核菌発見100年を機に

    霊仙山から現在の稲村ケ崎に移された。


    鎌倉医師会の手で、大型ヘリコプターで、移設費500万円をかけて

    移設した。


    移設場所地図の写真

  3. コッホ記念碑の碑文
    【碑の表面 文章】

  4. (上段のドイツ語文章は省略)
    明治42年(注 41年が正しい)7月独国大医古弗先生□北里博士遊鎌倉望富嶽而快之博士為設
    榻於霊仙山上先生昨夕縦目心甚喜之既西帰未幾而没山之主村田君及某某等相某立以志遺躅
    山下即稲村崎為元弘役新田左中将投刀之地海涛飜空與嶽雪輝映今則為海外偉人留賞の所此
    亦可以傳也
        大正元年九月                     永坂周記並書


    【碑の裏面 文章】
      賛  成  員  (上段に彫られる)

    小林知和、大林二郎、沖本 孝、鎌倉銀行、霊山智空、福田良平、小町園、江ノ島電気鉄道部

    寺島大浩、安齋保之助、坂田主一、清川栄吉、三橋茂三郎、本島藤七郎

      発  起  人  (下段に彫られる)

    犬山初蔵、萩原 輝、勝見正成、鶴見屋三郎、村田久吉、青山和三郎、北里柴三郎、


  5. コッホ記念碑の移転時に建立した碑


  6. 移設場所地図の写真


 ボート転覆海難事故の慰霊碑

  1. 明治43年(1910年)1月23日

  2. 逗子開成中学のボート(箱根号)七里ガ浜沖で遭難する。

    ボート転覆海難事故の慰霊碑
    ボート転覆海難事故の慰霊碑


    明治43年(1910年)1月23日天気の良い日曜日の午後、

    七里ガ浜・行合川の沖合で逗子開成中学校の生徒など十二名が、

    逗子開成のボート「箱根号」が転覆・遭難する。

    横須賀警察署から署長以下20名が現場に急行、漁船22艘(漁夫200名)が

    出て捜索にあたり、横須賀軍港から駆逐艦が二艘・水雷艇6艘が協力支援した。


    1月27日午後に全員の溺死が確認された。


    2月6日に追悼法要が行われ、三角錫子に指揮された鎌倉女学校(現鎌倉女学院)

    の生徒70人により「哀悼歌」が歌われた。


    この遭難中に男子4人の兄弟を失った徳田家の哀れは極めた。

    4人の子供を失った父・徳田正茂氏が悲嘆の胸中を託した一句…

      『 千 鳥 鳴 く  七 里 ケ 浜 の  寒 さ か な 』


    昭和38年、稲村ケ崎に五年生の長兄徳田勝治君が、

    三年生の末弟・武三君をかばいしっかり抱いた姿を表現した

    彫刻家・菅沼五郎作のブロンズ像、

    逗子開成関係者によつて建立された。


                   (左の写真をご覧下さい)

     ボート転覆海難事故の慰霊碑 (2009.4.3日撮影)

  • 『 七 里 ガ 浜 の 哀 歌 ・ 歌 詞 』
  • ボート転覆海難事故の哀歌
    注.@ この曲はアメリカの Garden の作曲、 When We Arrive at Home という歌でこれは「明治唱歌」第五巻に『夢の外」という

        大和田建樹の作詞で出ている。

        大正5年6月、『七里ガ浜の哀歌』という単行本となつて楽譜が発行された。      ……《宮内寒弥著「七里ケ浜」新潮社版より》

      A この詩を作詞したのは当時鎌倉師範学校に在学の福田正夫であったという。

        詩人の近藤東氏は、「資料・福田正夫」(昭和60年1月24日・福田正夫詩の会)の中で『七里ガ浜の哀歌』の謎と題した

        一文の中で福田正夫の原作が、なんらかの事情で鎌倉女学校の教師であった錫子の手に入り、彼女は曲に乗せるために相当手を

        加えたのではなかろうかーーと憶測の結論を述べている。……《上野飛雲著「海辺の文学ー相模編ー」かまくら春秋社出版事業部より》