元弘三年(1333年)五月十九日、新田義貞軍は 大館次郎宗氏 【大館又次郎宗氏は誤字】を大将として、 極楽寺口から鎌倉に攻め入ろうとした。 片や北条軍は 本間山城左衛門 が、手勢を率いて大館宗氏の本陣に切り込んだ。 此の為に大館氏とその家来 主従十一人は討死した。 そこで、十一人の遺骸を此処に埋葬し、十一面観音の像を建立して その霊魂を弔った。 此の墓所を 「十一人塚」 と 称した と言う。 昭和六年三月 鎌 倉 町 青 年 団 |
( 正 面 ) 大館又次郎源宗氏主従十一人墓 元弘三年酉発年五月十九日 於此処戦死 ( 左 側 ) 旧塚上標松前建後之 宗氏後胤 越州福井藩 大谷俊氏 同氏亮 ( 右 側 ) 干時文久二年壬戌年 ( 正 面 ) 我祖塚後之地に十九坪 保塚之南隣金田氏所有明 治二十二年中前主人源左 衛門感我祖威霊因寄進之 子修塚之次改修建界標併録 其因云 大館治氏記 |
鎌倉末期の武士。上野国 新田荘大館・一井を本領として家を興した。 新田大館の祖 家氏の子。 次郎。 正慶二・元弘三年(1333年)五月、新田義貞と共に新田荘で鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、 武蔵国小手ケ原の合戦を経て、五月十九日三万余騎をもって極楽寺切通口の大将として 鎌倉を攻めた。 しかし腰越の辺りで大仏貞直の近習本間山城左衛門の郎党と差し違え、討死した。 《このこと、『太平記』第巻10 に記載あり》 |
|
ともに この挙兵に参加しているが、氏明はその後も新田義興・脇屋義助らとともに 南朝方として各地を転戦する。 |
|
【人物紹介】は 出展;「鎌倉・室町人名事典」(安田元久著)による |