(3)源 光行が此の地で誅されそうになり、息子の働きで助命された記事
《承久3年 辛巳(1221年)8月2日 癸丑 》 の条
大監物光行は、清久の五郎行盛これを相具し下向す。今日巳の刻金洗沢に着す。
先ず子息太郎を以て案内を通ず
前の右京兆、早くその所に於いて誅戮すべきの旨その命 有り。
これ関東数箇所の恩沢に浴しながら院中に参り、東士の交名を註進し、宣旨の副文を書く。罪科他に異なるが故なり。
時に光行の嫡男源民部大夫親行、本より関東に在り功を積むなり。
この事を漏れ聞き、死罪を宥めらるべきの由泣く泣く愁い申す と雖も、許容無し。
重ねて伊豫中将に属き申す。羽林これを伝達す。仍って誅すべか らざるの旨書状を與う。
親行これを帯し、金洗沢刻に馳せ向かい父の命を救いをはんぬ。 清久の手より小山左衛門の尉方に召し渡す。
光行往年慈父(豊前の守光秀平家に與す。右幕下これを咎む。光行下向せしめ愁訴す。仍って免許す)の恩徳に報いるに依って、
今日孝子の扶持に逢うなり。
黄昏に及び、陸奥の六郎有時已下上洛す。人々多く以て 下着す と。
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