『吾妻鏡』 における  金洗沢 の記述
    「 金 洗 沢 かねあらいさわ」 ・ 『吾妻鏡』掲載 記事
  1. 寿永元年(1182年)、 源 頼朝が江ノ島参拝の帰り、金洗沢で「牛追物」を催した記事

  2. 義経が鎌倉入りを果たせなかった記事

  3. 源 光行が此の地で誅されそうになり、息子の働きで助命された記事

  当地が関所や刑場のような境界的位置付けにあったことがうかがわれる。




(1)寿永元年(1182年)、 源 頼朝が江ノ島参拝の帰り、金洗沢で「牛追物」を催した記事



 《養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅(1182年)4月5日 乙巳  》 の条 

 武衛腰越に出しめ江島に赴き給う。
足利の冠者・北條殿・(以下省略)等御共に候す。
これ高尾の文學上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天をこの島に勧請し奉る。  (以下省略)
鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんが為なりと。今日即ち鳥居を立てらる。
その後還らしめ給う。
金洗沢の辺に於いて牛追物有り。
下河邊庄司・和田の小太郎・小山田の三郎・愛甲の三 郎等、箭員有るに依って、各々色皮・紺絹等を賜う。



(2)義経が鎌倉入りを果たせなかった記事




(3)源 光行が此の地で誅されそうになり、息子の働きで助命された記事


 《承久3年 辛巳(1221年)8月2日 癸丑  》 の条 

大監物光行は、清久の五郎行盛これを相具し下向す。今日巳の刻金洗沢に着す。
先ず子息太郎を以て案内を通ず

前の右京兆、早くその所に於いて誅戮すべきの旨その命 有り。
これ関東数箇所の恩沢に浴しながら院中に参り、東士の交名を註進し、宣旨の副文を書く。罪科他に異なるが故なり。
時に光行の嫡男源民部大夫親行、本より関東に在り功を積むなり。
この事を漏れ聞き、死罪を宥めらるべきの由泣く泣く愁い申す と雖も、許容無し。
重ねて伊豫中将に属き申す。羽林これを伝達す。仍って誅すべか らざるの旨書状を與う。

親行これを帯し、金洗沢刻に馳せ向かい父の命を救いをはんぬ。 清久の手より小山左衛門の尉方に召し渡す。
光行往年慈父(豊前の守光秀平家に與す。右幕下これを咎む。光行下向せしめ愁訴す。仍って免許す)の恩徳に報いるに依って、
今日孝子の扶持に逢うなり。
黄昏に及び、陸奥の六郎有時已下上洛す。人々多く以て 下着す と。