|
「 金 洗 沢 」
七里ガ浜の内、行合川の西側辺りを指す古称。
現在の七里ガ浜一丁目・一丁目附近と行合川を含めた地域で
江ノ電の待避線ふたりが範囲と推定される。
地名の由来について『鎌倉志』は、此の場所で昔黄金が掘ら
れたためとし『攬勝考』では江ノ島で採掘された銅をこの沢で
製錬したためという説が唱えられている。
ただし七里ガ浜辺の海岸線については、砂鉄を多く含んだ浜で
あったことが指摘されており(金兼藁・鎌倉志)、刃物を研ぐの
に適した地質であったことから、地名がつけられた。
元仁元年(1224年)には、霊所の一つとされ、当地において
雨乞いの祈祷である七瀬祓の祭りが行われている。(『吾』)
ちなみに、元仁頃の七瀬は由比ガ浜・金洗沢池・片瀬川・六浦
抽川・杜戸・江島龍穴で、寛喜2年(1230年)の頃は江ノ島の
替り逗子の田古恵河が選ばれたが、嘉禎元年(1235年)には再び
江島が霊所となつた。 (三浦浩樹著)
「 田 辺 池 」
「田辺ケ池」とも。別名「雨乞いの池」。
文永8年(1271年)、旱魃を憂いた執権北條時宗は、
極楽寺の忍性に雨乞い祈祷を命じた。忍性は此の池で雨乞
の祈祷を行ったものの、効果は無かった。替わって日蓮が
法華経を唱え出すと、たちまち大雨が降り出した。という
伝承が残っている。
現在、池は七里ガ浜一丁目に小さく残っているが、日蓮宗
龍王山霊光寺は、この雨乞いの霊跡を管理するため
昭和32年(1957年)に寺格を与えられた寺院である。
(風間 洋著)
「 行 合 川 」
行逢川とも。
現在七里ガ浜五丁目辺りから田辺ケ谷の渓間を過ぎ、江ノ島
電鉄七里ガ浜駅の東側を通って海にそそぐ。
天明5年(1785年)版『鎌倉名跡志』に「行逢川、是より江の
いま道也」とあるる
また、『鎌倉志』は日蓮が文永8年(1271年)9月12日に
龍口で処刑されそうになつた際、師にまつわる奇瑞が現れ
たので、それを幕府に伝える使者と執権北條時頼の赦免
使者がこの河畔で出合ったという故事から此の名前が付
されたと記している。 (浪川幹夫著)
|
《 出典 「鎌倉の地名由来辞典」(編者;三浦勝男)東京堂出版 発行 による 》
|
「 金 洗 沢 」 ・ 『吾妻鏡』掲載 記事
寿永元年(1182年)、 源 頼朝が江ノ島参拝の帰り、金洗沢で「牛追物」を催した記事
義経が鎌倉入りを果たせなかった記事
源 光行が此の地で誅されそうになり、息子の働きで助命された記事
当地が関所や刑場のような境界的位置付けにあったことがうかがわれる。
|