日蓮上人祈雨旧跡 (nichiren-amagoi-basho-ato)の石碑文の説明


 ☆ 日蓮上人祈雨旧跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

    古くから 「金洗沢かねあらいさわ」 と言われているのは、此の池の辺である。

    文永八年(1271年)六月、厳しい旱魃に襲われ、雨が降らなかった。
   鎌倉幕府は、「良観房 忍性 」に雨乞いの祈祷を命じたが、 その効果は得られなかった。
   其の時、「日蓮」 が此の池の辺で、雨乞いの祈りをした。

    忽ちに 恵みの雨が降り、大地を潤はした と言う。

    世に 日蓮上人 雨乞いをした霊地は、此の地のことである。

            昭和三十一年三月 建
                                 鎌 倉 友 青 会



「 金洗沢かねあらいさわ 」 ・ 「 田辺池たなべがいけ 」 ・ 「 行合川ゆきあいがわ 」 に つ い て
日蓮上人祈雨旧跡案内図 金 洗 沢 かねあらいさわ
七里ガ浜の内、行合川の西側辺りを指す古称。

現在の七里ガ浜一丁目・一丁目附近と行合川を含めた地域で

江ノ電の待避線ふたりが範囲と推定される。

 地名の由来について『鎌倉志』は、此の場所で昔黄金が掘ら

れたためとし『攬勝考』では江ノ島で採掘された銅をこの沢で

製錬したためという説が唱えられている。

ただし七里ガ浜辺の海岸線については、砂鉄を多く含んだ浜で

あったことが指摘されており(金兼藁・鎌倉志)、刃物を研ぐの

に適した地質であったことから、地名がつけられた。


 元仁元年(1224年)には、霊所の一つとされ、当地において

雨乞いの祈祷である七瀬祓ななせのはらいの祭りが行われている。(『吾』)

ちなみに、元仁頃の七瀬は由比ガ浜・金洗沢池・片瀬川・六浦

抽川・杜戸・江島龍穴で、寛喜2年(1230年)の頃は江ノ島の

替り逗子の田古恵河が選ばれたが、嘉禎元年(1235年)には再び

江島が霊所となつた。     (三浦浩樹著)


田 辺 池 たなべがいけ
「田辺ケ池」とも。別名「雨乞いの池」。

文永8年(1271年)、旱魃を憂いた執権北條時宗は、

極楽寺の忍性に雨乞い祈祷を命じた。忍性は此の池で雨乞

の祈祷を行ったものの、効果は無かった。替わって日蓮が

法華経を唱え出すと、たちまち大雨が降り出した。という

伝承が残っている。

現在、池は七里ガ浜一丁目に小さく残っているが、日蓮宗

龍王山霊光寺は、この雨乞いの霊跡を管理するため

昭和32年(1957年)に寺格を与えられた寺院である。

                   (風間 洋著)

行 合 川 ゆきあいがわ
行逢川とも。

現在七里ガ浜五丁目辺りから田辺ケ谷の渓間を過ぎ、江ノ島

電鉄七里ガ浜駅の東側を通って海にそそぐ。

天明5年(1785年)版『鎌倉名跡志』に「行逢川、是より江の

いま道也」とあるる

また、『鎌倉志』は日蓮が文永8年(1271年)9月12日に

龍口で処刑されそうになつた際、師にまつわる奇瑞が現れ

たので、それを幕府に伝える使者と執権北條時頼の赦免

使者がこの河畔で出合ったという故事から此の名前が付

されたと記している。        (浪川幹夫著)

《 出典 「鎌倉の地名由来辞典」(編者;三浦勝男)東京堂出版 発行 による 》        
    「 金 洗 沢 かねあらいさわ」 ・ 『吾妻鏡』掲載 記事
寿永元年(1182年)、 源 頼朝が江ノ島参拝の帰り、金洗沢で「牛追物」を催した記事

義経が鎌倉入りを果たせなかった記事

源 光行が此の地で誅されそうになり、息子の働きで助命された記事

 当地が関所や刑場のような境界的位置付けにあったことがうかがわれる。



日蓮聖人の祈雨  (極楽寺忍性良観と対決)   に つ い て

  1. 文永8年(1271年)は大旱魃で農民は耕作できず、被害が出て、飢え、娘の身売り、赤子の水流し等

  2. 悲惨な状況であつた。

  3. 極楽寺忍性良観は時の執権北條時宗の命により、6月18日より雨乞いの祈祷に入った。

  4. これを聞いた日蓮は、忍性に使いをだした。

  5. 「雨乞いの祈祷により七日以内に雨が降ったならば日蓮は自分の法門を捨て、良観上人の弟子となろう。

    併し若し七日以内に雨が降らなかったならば、其の時は日蓮の法門に従うべきこと」を伝えた。

  6. これを聞いて良観房は烈火の如く怒り、「日蓮を思い知らせるのはこの時」とばかり

    弟子百二十余人を率いて、念仏の大合唱を・晴雨経・法華経或いは八斉戒を説くなどあらゆる

    祈願をした。

  7. 4〜5日たっても降雨の兆しなく、良観房は更に多宝寺の弟子数百人を呼び集め全力で

    雨乞いの祈祷をおこなった。

    露ほども雨降らず、更に17日間祈ったが雨は降らなかった。        ……『頼基陳情』による ……


  8. 日蓮の勝負処

    雨乞いの命を受けたのは忍性と日蓮が同時であつた、が日蓮は二週間の延期を申しでた。

      日蓮は自身「旃陀羅せんだら」の生まれというが、安房国の一漁村の生まれ祖先の系図よりも父が漁師であった。

      日蓮は三ヶ月先までの天候を予知できる漁師としての能力を備え持っていたと考えられる。


  9. 日蓮は十五日目に立った。少数の弟子とともに、田辺ケ池の畔に立ち法華経を片手天を仰いで読経した。

    燦々と輝く強烈な太陽。  …何もおこらないまま 法華経・三の巻まで読み進んた時、弟子の一人が一枚の経木を池に投げ入れ

    四の巻まで進んだとき、池の中央が霧が立ち上り、 五の巻に読経が進むと、風かふいて雷が鳴り出した。

    六の巻まで進むとポツリポツリと大粒の雨が降り出した。  法華経の大合唱が始まった。

    雨は三日三晩降り続き、洪水に成ることなく、田畑に水が潤い、大飢饉から免れることが出来た。

  10. 日蓮の雨乞いの霊験知れ渡り、以来この地・田辺ケ池は「日蓮の雨乞いの池」と呼ばれる様になった


  11. それから三ヶ月後、日蓮は反逆の徒して佐渡へ流罪となる。

    雨乞い祈祷が空振におわつた良観房は、能弁の浄光明寺の僧 行敏に日蓮との問答を行わせ、

    行敏は「日蓮は、只偏に法華一部に執して、諸余の大衆を誹謗す」として幕府に告訴した。