玉 縄 城 ( tamanawa-shiro ) の 歴 史
永正九年(1512年 )
北 條
早 雲
そううん
は、
三 浦
道 寸
どうすん
義 同
の住吉城を囲み、玉縄城築城を始める。
永正十三年(1516年 )
三浦氏の援軍、
上 杉 朝 興
を破り、新井城に三浦氏を滅ぼす。
大永六年(1526年 )
房総の
里 見 実 堯
の軍が鎌倉へ侵入の時、戸部川で防戦。
この時の城主は、
北 條 氏 時
。
永録四年(1561年 )
越後の
上 杉 景 虎 ( 謙 信 )
が鎌倉へ進入して玉縄城を包囲したが、落城てず。
この時の城主は、
北 條 氏 繁
。
永録六年(1563年 )
5年に一度、城を修理することを決める。
永録十二年(1569年 )
甲斐の
武 田 信 玄
が小田原城を攻めた時、玉縄城西方の出城(大谷氏守備)は陥落された。。
また御殿場の深沢城も包囲された。
「抵抗をやめて開城すれば、小田原まで送り届ける」との矢文状が打ち込まれた
、 黄八幡で名をなした豪勇の
北 條 綱 成
は城を捨てて小田原に逃げた。
天正十七年(1589年 )
豊 臣 秀 吉
の小田原攻撃の時、玉縄城主
北條氏勝
は、箱根山中城に援軍として赴いていた。
天正十八年(1590年 )
氏 勝 は山中城が陥ちたので玉縄城に戻り籠城した。
4月秀吉方の
徳 川 家 康
の説得により玉縄城を開けわたした。
同年、
北 條 氏 政 ・ 氏 直
父子の守る小田原城も落城して、戦国時代は終わりを告げた。
元和五年(1619年 )
徳川の一国一城令で相模国では箱根を守る為に小田原城が残り、玉縄城は廃城となった。
《ページ内リンク目次》
(1) 後 北 条 氏 の 略 系 図
《【 玉 縄 北 条 氏 の 略 系 図 】》
をご参照さい。
(2) 北 条 氏 の 主 要 支 城 ・ 地 図