玉縄城跡・模型・遺構 集 玉縄城跡 (no1)
《 出典 「鎌倉市史考古偏」(赤星直忠博士調査) 》 |
@ 本 丸 |
城山の中心で、ほぼ方形の周囲に高い土塁を巡らしていた。 |
昭和35年、清泉女学校の敷地となる。 整地前は中ほどで南北二壇に別れ、南側壇の東北寄りに「こがね井戸」と呼ばれる井戸があった。 A 諏 訪 壇 |
本丸土塁の東側の高所を言う。「天守閣」に相当する場所。 |
城の鎮守「諏訪社」があった所。 B 出 丸 |
「花見堂」(新編相模風土記では「まりけ場」と記す)。 |
諏訪壇の北東尾根を掘切った方形の一郭で、堀切は本丸北側の空堀に続いていた。 C たいこやぐら |
七曲くるわの土塁。 |
七曲坂から攻撃してくる敵を追い落とすことが出来る。(現在宅地) D 七曲くるわ |
本丸南方(推定)。現在民家が並び、南部は宅地造成で崩された。 |
E 円光寺くるわ |
「円光寺」の旧地。(現在宅地)。 |
「円光寺」…城護山明王院、古義真言宗、開山は隆範〔1558年寂〕もと北條氏時が玉縄城中に祈願所して創建。 廃城後に現在地に移る。《新編相模風土記稿》。 F えんしょうくるわ |
「焔硝倉」の地と云われている。七個の小平場に分かれていた。 |
G ふくろもち |
曲がりくねった深い空堀となっている。敵兵をこの「袋小路」の空堀に迷いこませる。(現在宅地造成地) |
H おんまや曲輪 |
「馬場」が並んでいたと推定。…城宿東端に現在「おんまや」と呼ぶ民家がある、家号が地名として残ったものか…。 |
《新編相模風土記稿》には「本丸」の南と記してある。 I くいちがい |
本丸西側土塁下の幅10m余の空堀を距てた広場であった。 |
J お 花 畑 |
本丸の北側に大空堀を距ててあった二段の地所を呼んだ。 |
現在は清泉学園の修道院が建ち、南側は広場となり、本丸をめぐる北側の空堀は平に埋められて、本校舎並びに西側に体育館が建設された。 東側は谷になって下り、この谷の杉林を「くるはの杉林」と呼ぶ。旧道の南に新道が造られ、学園正門に通じている。 |