玉縄首塚由来 (tamanawa-kubizukayurai) の歴史
- 大永六年(1526年 )11月26日
房総の 里 見 実 堯 の軍が鎌倉へ侵入の時、戸部川で防戦。
この時の城主は、 北 條 氏 時 。
応戦しし、戦死した、渡内の福原氏や大船の甘粕氏 一族35名を供養した塚といわれている。
この首塚を 「 甘 粕 塚 」 または、 「 甘 粕 榎 」 ともいいます。
後世に六地蔵が祭られ、
昭和43年(1968年)8月に玉縄史跡顕彰会により記念碑 「 玉 縄 首 塚 由 来 (怨親平等) 」が建立された。
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里 見 実 堯
(文明16年(1484)〜天文2年(1533)7月27日)は戦国時代のの安房里見氏の一族、
- 初代義実の子と推定されている。
- 里見氏の全盛期を築き挙げた。
- 天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で、小弓公方の足利義明と同盟を結んで北条氏綱と対抗した、
- 義明の劣勢をみつつ戦場から脱出安房に帰還した。結果 義明は戦没し、小弓公方は事実滅亡した。
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「南総里見八犬伝』曲亭馬琴著(江戸時代後期の長編伝奇読本)は、
- 南総里見家(里見義実)の勃興と伏姫・ハ房の因縁を・・題材にしている。
- 毎年8月19日に「玉縄首塚まつり」が行われる。
- 玉縄の六寺院の僧侶が導師となって法要が行われる
- 戸部川において燈籠流しも行われる。