U 石橋山の戦い


1180年(治承四年、庚子)

8月2日 壬午
  相模の国の住人大場の三郎景親以下、去る五月合戦の事に依って、在京せしむの東士等、多く以て下着すと。
 

8月4日 甲申
  散位平の兼隆(前の廷尉、山木判官と号す)は、伊豆の国の流人なり。
  父和泉の守信 兼が訴えに依って、当国山木郷に配す。
  漸く年序を歴るの後、平相国禅閤の権を仮り、威を郡郷に燿かす。
  これ本より平家一流の氏族たるに依ってなり。
  然る間、且つは国 敵として、且つは私の意趣を挿ましめ給うが故、先ず試みに兼隆を誅せらるべきなり。
  而るに件の居所は要害の地たり。前途後路、共に以て人馬を煩わしむべきの間、彼の地形を図絵せしめ、
  その意を得んが為、兼日密々に邦道を遣わさる。
  邦道は洛陽放遊 の客なり。因縁有って、盛長挙し申すに依って武衛に侯す。、
  而るに事の次いでを求め兼隆が館に向かい、酒宴・郢曲の際、兼隆入興す。
  数日逗留するの間、思いの如く山 川村里に至るまで、悉く以て図絵せしめをはんぬ。今日帰参す。
  武衛北條殿を閑所に 招き、彼の絵図を中に置き、軍士の競い赴くべきの道路、進退用意有るべきの所、
  皆 以て指南せしめ給う。 凡そ画図の躰を見るに、正にその境を莅むが如しと。
 

8月6日 丙戌
  邦道・昌長等を召し、御前に於いて卜筮有り。
  また来十七日寅卯の刻を以て、兼隆を誅せらるべきの日時に点じをはんぬ。
  その後、工藤の介茂光・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・宇佐美の三郎助茂・天野の籐内遠景・
  佐々木の三郎盛綱・加藤次景廉以下、当時経廻士の内、殊に御恩を重んじ身命を軽んずるの勇士等を以て、
  各々一人次第閑所に召し抜き、合戦の間の事を議せしめ給う。
  未だ口外せざると雖も、偏に汝を 恃むに依って仰せ合わさるの由、人毎に慇懃の御詞を竭さるの間、
  皆一身抜群の御芳志を喜び、面々勇敢を励まさんと欲す。
  これ人に於いて独歩の思いを禁しめらると雖も、家門草創の期に至り、
  諸人の一揆を求めしめ給う御計らいなり。
  然れども真実の 密事に於いては、北條殿の外、これを知る人無しと。
 

8月9日 己丑
  近江の国の住人佐々木の源三秀義と云う者有り。平治逆乱の時、左典厩の御方に候し、
  戦場に於いて兵略を竭す。
  而るに武衛坐事の後、旧好を忘れ奉らずして、平家の権勢に諛わざるが故、
  相伝の地佐々木庄を得替するの間、子息等を相率い、秀衡(秀義姨母の夫なり)を恃み奥州に赴く。
  相模の国に至るの刻、渋谷庄司重国秀義が勇敢を感 ずるの余り、これをして留置せしむの間、
  当国に住しすでに二十年を送りをはんぬ。
  この間、子息定綱・盛綱等に於いては、武衛の門下に候ずる所なり。
  而るに今日、大 庭の三郎景親秀義を招き談りて云く、景親在京の時、上総の介忠清(平家の侍)に対面する
  の際、忠清一封の書状を披き、景親に読み聴かせしむ。これ長田入道が状なり。
  その詞に云く、北條の四郎・比企掃部の允等、前の武衛を大将軍と為し、叛逆の志を 顕わさんと欲すてえり。
  読み終わり、忠清云く、この事常篇に絶す。高倉宮御事の後、諸国の源氏の安否を糺行すべきの由、
  沙汰の最中、この状到着す。定めて子細有らんか。早く相国禅閤に覧するべきの状なりと。
  景親答えて云く、北條はすでに彼の縁者たるの間、その意を知らず。 掃部の允は早世する者なりてえり。
  景親これを聞きて以降、意潜かに周章す。貴客と年来芳約有るが故なり。
  仍って今またこれを漏脱す。賢息佐々木の太郎等、武衛の御方に候せられんか。
  尤も用意有るべき事なりと。秀義心 中驚騒の外他に無し。委細の談話に能わず、帰りをはんぬと。
 

8月10日 庚寅
  秀義、嫡男佐々木の太郎定綱(近年宇都宮に在り。この間渋谷に来たる)を以て、昨日景親が談る所の趣、
  武衛に申し送ると。
 

8月11日 辛卯
  定綱、父秀義の使いとして北條に参着す。
  景親の申状、具に以て上啓するの処、仰せに云く、この事四月以来、丹府動中のものなり。
  仍って近日素意を表わさんと欲するの間、召しに遣わすべきの処参上す。尤も優賞有るべし。
  兼ねてまた秀義最前に告げ申す。太だ以て神妙と。
 

8月12日 壬辰
  兼隆を征せらるべき事、来十七日を以てその期に定めらる。
  而るに殊に岡崎の四郎義 實・同輿一義忠を恃み思し食さるるの間、
  十七日以前、土肥の次郎實平を相伴い参向 すべきの由、今日義實が許に仰せ遣わさると。
 

8月13日 癸巳
  定綱明暁帰りをはんぬべきの由を申す。
  武衛これを留めしめ給うと雖も、甲冑等を相具し、参上すべきことを称す。仍って身の暇を賜う。
  仰せに曰く、兼隆を誅せしめ、義兵の始めに備えんと欲す、来十六日必ず帰参すべしてえり。
  また定綱に付け、御書を渋谷庄司重国に遣わさる。これ則ち恃み思し食さるるの趣なり。
 

8月16日 丙申 昨日より雨降る。終日休止せず。
  明日合戦無為の為、御祈祷を始行せらる。住吉小大夫昌長天冑地府祭を奉仕す。
  武衛 自ら御鏡を取り、昌長に授け給うと。永江蔵人頼隆一千度御祓いを勤むと。
  佐々木兄 弟今日参着すべきの由、仰せ含めらるるの処、不参して暮れをはんぬ。
  いよいよ人数 無きの間、明暁兼隆を誅せらるべき事、聊か御猶予有り。
  十八日は、御幼稚の当初より、正観音像を安置し奉り、放生の事を専らせられ、多年を歴るなり。
  今更これを犯し難し。
  十九日は、露顕その疑い有るべからず。而るに渋谷庄司重国当時恩の為平家に仕う。
  佐々木と渋谷とまた同意の者なり。一旦の志に感じ、左右無く密事を彼の輩に仰せ含めらるるの條、
  今日不参に依って、頻りに後悔し、御心中を労わしめ給うと。
 

8月17日 丁酉 快晴
  三島社の神事なり。籐九郎盛長奉幣の御使いとして社参す。
  程なく帰参す(神事以前なり)。
  未の刻、佐々木の太郎定綱・同次郎経高・同三郎盛綱・同四郎高綱、兄弟四人参着す。
  定綱・経高は疲馬に駕す、盛綱・高綱は歩行なり。
  武衛その躰を召覧し、御感涙頻りに顔面に浮かべ給う。
  汝等の遅参に依って、今暁の合戦を遂げず、遺恨万 端の由仰せらる。
  洪水の間意ならず遅留するの旨、定綱等これを謝し申すと。
  戌の刻、籐九郎盛長が童僕、釜殿に於いて兼隆が雑色男を生虜る。但し仰せに依ってなり。
  この男日来殿内の下女に嫁すの間、夜々参入す。而るに今夜勇士等殿中に群集するの儀、先々の形勢
  に相似ず。定めて推量を加えんかの由、御思慮有るに依って此の如しと。
  然る間明日を期すべきに非ず。各々早く山木に向かい雌雄を決すべし。
  今度の合戦を以て生涯の吉凶を量るべきの由仰せらる。また合戦の際、先ず放火すべし。
  故にその 煙を覧らんと欲すと。士卒すでに競い起こる。北條殿申されて云く、今日は三島の神事なり。
  群参の輩下向の間、定めて衢に満たんか。仍って牛鍬大路を廻らば、往返の者の為咎めらるべきの間、
  蛭島通を行くべきか。 てえれば、武衛報じ仰せられて曰く、思う所然りなり。
  但し事の草創として、閑路を用い難し。将又蛭島通に於いては、騎馬の儀叶うべからず。
  ただ大道たるべしてえり。また住吉小大夫昌長(腹巻を着す)を軍士に副えらる。
  これ御祈祷を致すに依ってなり。
  盛綱・景廉は、宿直に候すべきの由承り、御座の砌に留む。 然る後茨木を北に行き肥田原に到る。
  北條殿駕を扣え定綱に対して云く、兼隆が後見堤権の守信遠、山木の北方に有り。勝れる勇士なり。
  兼 隆と同時に誅戮せずんば、事の煩い有るべきか。各々兄弟は信遠を襲うべし。
  案内者 を付けしむべしと。定綱等領状を申すと。
  子の刻、牛鍬を東に行き、定綱兄弟信遠が 宅の前田の辺に留まりをはんぬ。
  定綱・高綱は、案内者(北條殿雑色、字源籐太)を 相具し、信遠が宅の後に廻る。
  経高は前庭に進み、先ず矢を発つ。これ源家平氏を征する最前の一箭なり。時に明月午に及び、
  殆ど白昼に異ならず。信遠が郎従等、経高の競い到るを見てこれを射る。
  信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。
  経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相戦うの間、両方の武勇掲焉なり。経高矢に中たる。
  その刻定綱・高綱後面より来たり加わり、信遠を討ち取りをはんぬ。
  北條殿以 下、兼隆が館の前天満坂の辺に進み矢石を発つ。
  而るに兼隆が郎従多く以て三島社の 神事を拝さんが為参詣す。その後黄瀬川の宿に至り留まり逍遙す。
  然れども残留する 所の壮士等、死を争い挑戦す。この間定綱兄弟信遠を討つの後、これに馳せ加う。
  爰に武衛軍兵を発するの後、縁に出御し、合戦の事を想わしめ給う。
  また放火の煙を見せしめんが為、御厩舎人江太新平次を以て、樹の上に昇らしむと雖も、
  良久しく烟を見ること能わざるの間、宿直の為留め置かるる所の加藤次景廉・佐々木の三郎盛綱・
  堀の籐次親家等を召し、仰せられて云く、速やかに山木に赴き、合戦を遂ぐべしと。
  手づから長刀を取り景廉に賜う。兼隆の首を討ち持参すべきの旨、仰せ含めらると。
  仍って各々蛭島通の堤に奔り向かう。三輩皆騎馬に及ばず。
  盛綱・景廉厳命に任せ、彼の館に入り、兼隆が首を獲る。郎従等同じく誅戮を免れず。
  火を室屋に放ち、悉く 以て焼亡す。暁天に帰参し、士卒等庭上に群居す。
  武衛縁に於いて兼隆主従の頸を覧 玉うと。
 

8月18日 戊戌
  武衛年来の間浄不浄を論ぜず、毎日の御勤行等有り。
  而るに自今以後、戦場に交わら しめ給うの程、定めて意ならず御怠慢有るべきの由歎き仰せらる。
  爰に伊豆山に法音 と号すの尼有り。これ御台所の御経師、一生不犯の者たりと。
  仍って日々の御所作を 件の禅尼に仰せ付けらるべきの旨、御台所これを申せしめ給う。
  即ち目録を遣わさる。
  尼領状を申すと。
  心経十九巻。
   八幡・若宮・熱田・八剱・大筥根・能善・駒形・走湯権現・禮殿・三島(第二、第三)・
   熊野権現・若王子・住吉・富士大菩薩・祇園天道・北斗・観音(各一巻、法楽すべしと)
    観音経一巻・寿命経一巻・毘沙門経一巻・薬師咒二十一返・尊勝陀羅尼七返・
   毘沙 門咒百八返(已上、御願成就・御子孫繁栄の為なり)
   阿弥陀仏名千百返(一千返は、父祖頓證菩提の奉為なり。百返は、左兵衛の尉藤原正清の得道なり)
 

8月19日 己亥
  兼隆が親戚史大夫知親、当国蒲屋の御廚に在り。日者非法を張行し、土民を悩乱せしむの間、
  その儀を停止すべきの趣、武衛下知を加えしめ給う。邦道奉行たり。
  これ関東の事施行の始めなり。その状に云く、 下す
   蒲屋の御厨住民等の所
     早く史大夫知親が奉行を停止すべき事
   右東国に至りては、諸国一同、庄公皆御沙汰を為すべきの旨、親王宣旨の状明鏡なり。
   てえれば、住民等その旨を存じ、安堵すべきものなり。仍って仰せの所、
   故に 以て下す。
     治承四年八月十九日
  またこの間、土肥の辺より北條に参るの勇士等、走湯山を以て往還の路と為す。
  仍って多く狼藉を見るの由、彼の山の衆徒等参訴するの間、武衛今日御自筆の御書を遣わされ、
  これを宥め仰せらる。世上無為に属くの後、伊豆の一所、相模の一所、庄園を当山に奉寄せらるべし。
  凡そ関東に於いて、権現の御威光を耀かし奉るべきの趣、これを載せらる。
  茲に因って、衆徒等忽ち以て憤りを慰むものなり。
  晩に及び、御台所走湯山の文陽房覚淵の坊に渡御す。邦道・昌長等御共に候す。
  世上落居の程、潛かに この所に寄宿せしめ給うべしと。
 

8月20日 庚子
  三浦の介義明が一族已下、兼日進奉の輩有りと雖も、今に遅参す。
  これ或いは海路を 隔てて風波を凌ぎ、或いは遠路を避けて艱難に泥むが故なり。
  仍って武衛先ず伊豆・ 相模両国の御家人ばかりを相率い、伊豆の国を出て、
  相模の国土肥郷に赴かしめ給うなり。
  扈従の輩
   北條四郎    子息三郎    同四郎     平六時定   籐九郎盛長
   工藤介茂光   子息五郎親光  宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平
   土屋三郎宗遠  次郎義清    同彌次郎忠光  岡崎四郎義實 同余一義忠
   佐々木太郎定綱 同次郎経高   同三郎盛綱   同四郎高綱  天野籐内遠景
   同六郎政景   宇佐美平太政光 同平次實政   大庭平太景義 豊田五郎景俊
   新田四郎忠常  加藤五郎景員  同籐太光員   同籐次郎景廉 堀籐次親宗
   同平四郎助政  天野平内光家  中村太郎景平  同次郎盛平  鮫島四郎宗家
   七郎武者宣親  大見平二家秀  近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時
   澤六郎宗家   義勝房成尋   中四郎惟重   中八惟平   新藤次俊長
   小中太光家
  これ皆将の恃む所なり。
  各々命を受け家を忘れ親を忘ると。
 

8月22日 壬寅
  三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次
  郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・津久井の次郎義行以下、
  数輩 の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。
 
8月23日 癸卯 陰、夜に入り甚雨抜くが如し
  今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石
  橋山に陣し給う。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。
  中四郎惟重これを持つ。又頼隆白幣を上箭に付け、御後に候す。
  爰に同国住人大庭の三郎景親・俣野の五郎景久・河村の三郎義秀・渋谷庄司重国・糟屋権の守盛久・
  海老名の源三季員・曽我の太郎助信・瀧口の三郎経俊・毛利の太郎景行・長尾の新五為宗・
  同新六定景・原宗三郎景房・同四郎義行、並びに熊谷の次郎直實以下、平家被官の輩、
  三千余騎の精兵を率い、同じく石橋山の辺に在り。
  両陣の際一つの谷を隔つなり。
  景親が士卒の中、飯田の五郎家義志を武衛に通じ奉るに依って、馳参せんと擬すと雖も、
  景親が従軍道路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。
  また伊東の二郎祐親法師三百余騎を率い、武衛の陣の後山に宿し、これを襲い奉らんと欲す。
  三浦の輩は、晩天に及ぶに依って、丸子河の辺に宿す。
  郎従等を遣わし景親が党類の家屋を焼失す。
  その烟半天に聳え、景親等遙かにこれを見て、三浦の輩の所為の由を知りをはんぬ。
  相議して云く、今日すでに黄昏に臨むと雖も、合戦を遂ぐべし。
  明日を期せば、三浦の衆馳せ加わり、定めて衰敗し難きかの由群議す。
  事訖わり、数千の強兵武衛の陣に襲攻す。
  而るに源家 の従兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆旧好を重んずるに依って、
  ただ致死 を乞う。然る間真田の余一義忠並びに武藤の三郎、及び郎従豊三家康等命を殞す。
  景親いよいよ勝ちに乗る。暁天に至り、武衛椙山の中に逃れしめ給う。
  時に疾風心を 悩まし、暴雨身を労る。
  景親これを追い奉り、矢石を発つの処、家義景親が陣中に相交わりながら、
  武衛を遁し奉らんが為、我が衆六騎を引き分け景親に戦う。
  この隙を 以て椙山に入らしめ給うと。
 

8月24日 甲辰
  武衛椙山内堀口の辺に陣し給う。
  大庭の三郎景親三千余騎を相率い重ねて競走す。
  武 衛後峰を逃げしめ給う。
  この間加藤次景廉・大見の平次實政、将の御後に留まり、景親を防禦す。
  而るに景廉が父加藤五景員、實政が兄大見の平太政光、各々子を思い弟を憐れむに依って、
  前路を進まず、駕を扣え矢を発つ。
  この外加藤太光員・佐々木の四郎高綱・天野の籐内遠景・同平内光家・堀の籐次親家
  ・同平四郎助政、同じく轡を並べ攻戦す。景員以下の乗馬、多く矢に中たり斃れ死す。
  武衛また駕を廻し、百発百中の芸を振るい、相戦わるること度々に及ぶと。
  その矢必ず羽ぶくらを飲まずと云うこと莫し。射殺す所の者これ多し。
  箭すでに窮まるの間、景廉御駕の轡を取り、深山に引き奉るの処、景親が群兵四五段の際に近づき来たる。
  仍って高綱・遠景・景廉等、数辺還り合わせ矢を発つ。北條殿父子三人、また景親等と攻戦せしめ給う
  に依って、筋力漸く疲れて、峯嶺に登ること能わざるの間、武衛に従い奉らず。
  爰に景員・光員・景廉・祐茂・親家・實政等、御共に候すべきの由を申す。
  北條殿敢えて以て然るべからず、早く武衛を尋ね奉るべき旨命ぜらるるの間、
  各々奔走し数町の険阻を攀じ登るの処、武衛は臥木の上に立たしめ給う。
  實平その傍らに候す。
  武衛この輩の参着を 待ち悦ばしめ給う。
  實平云く、各々無為の参上、これを喜ぶべしと雖も、人数を率いしめ給わば、この山に御隠居すること、
  定めて遂げ難きか。
  御一身に於いては、例え旬月を渉ると雖も、實平が計略を加え、隠し奉るべしと。
  而るにこの輩皆御共に候すべきの由を申す。また御許容の気有り。
  實平重ねて申して云く、今の別離は後の大幸なり。
  公私命を全うし、計りを外に廻らさば、盍ぞ会稽の恥を雪がざらんやと。
  これ に依って皆分散す。悲涙眼を遮り、行歩に道を失うと。その後家義御跡を尋ね奉り参上す。
  武衛の念珠を持参する所なり。これ今暁合戦の時、路頭に落せしめ給う。
  日来持ち給うの間、狩倉の辺に於いて、相模の国の輩多く以て見奉るの御念珠なり。
  仍って周章し給うの処、家義これを求め出す。御感再三に及ぶ。而るに家義御共に候すべきの由を申す。
  實平前の如く諫め申すの間、泣く泣く退去しをはんぬ。
  また北條殿・ 同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。
  同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河の辺に於いて、祐親法師が軍兵に囲まれ、
  小平井名主紀六久重の為射取られをはんぬ。茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと。
  将 の陣と彼等の戦場と、山谷を隔つの間、傷を吮うに拠無く、哀慟千万すと。
  景親武衛の跡を追い、嶺渓を捜し求む。
  時に梶原平三景時と云う者有り。
  慥に御在所を知ると雖も、有情の慮を存じ、この山人跡無しと称し、景親が手を曳き傍峰に登る。
  この間武衛御髻の中の正観音像を取り、或る巌窟に安じ奉らる。實平その御素意を問い奉る。
  仰せに曰く、首を景親等に伝うの日、この本尊を見て、源氏の大将軍の所為に非ざるの由、
  人定めて誹りを貽すべしと。
  件の尊像は、武衛三歳の昔、乳母清水寺に参籠せしめ、嬰児の将来を祈る。
  懇篤に二七箇日を歴て、霊夢の告げを蒙り、忽然 として二寸の銀の正観音像を得る。
  帰敬し奉る所なりと。
  晩に及び、北條殿椙山の陣に参着し給う。
  爰に筥根山の別当行實、弟僧永實を遣わし、御駄餉を持たしめ、武衛を尋ね奉る。
  而るに先ず北條殿に遇い奉り、武衛の御事を問う。
  北條殿曰く、将は景親が囲みを遁れ給わずてえり。
  永實云く、客はもし半僧が短慮を試み給わんが為か。将亡ばしめ給わば、客は存えべかざるの人なりてえり。
  時に北條殿頗る咲ってこれを相具し、御前に持参し給う。
  永實件の駄餉を献る。公私餓えに臨むの時なり。値すでに千金と。
  實平云く、世上無為に属かば、永實宜しく筥根山の別当職に撰補せられるべし。
  てえれば、武衛またこれを諾し給う。
  その後永實を以て仕承と為し、密々筥根山に到り給う。
  行實の宿坊は参詣の緇素群集するの間、隠密の事その便無しと称し、永實が宅に入れ奉る。
  この行實と謂うは、父良尋の時、六條廷尉禅室並びに左典厩等に於いて聊かその好有り。
  茲に因って、行實京都に於いて父の譲りを得て、当山別当職に補せしむ。
  下向の刻、廷尉禅室下文を行實に賜い東国の輩に備う。
  左典厩の下文に云く、駿河・伊豆の家人等、行實相催せしめば従うべしてえり。
  然る間、武衛北條に御坐すの比より、御祈祷を致し、専ら忠貞を存ずと。
  石橋合戦敗北の由を聞き、独り愁歎を含むと。弟等数有りと雖も、武芸の器を守り、永實を差し進すと。
  三浦の輩城を出て丸子河の辺に来たり。
  去る夜より暁天を相待ち、参向せんと欲するの処、合戦すでに敗北するの間、慮外に馳せ帰る。
  その路次由比浜に於いて、畠山の次郎重忠と数刻挑戦す。
  多々良の三郎重春並びに郎従石井の五郎等命を殞す。また重忠が郎従五十余輩梟首するの間、重忠退去す。
  義澄以下また三浦に帰る。
  この間上総 権の介廣常が弟金田の小大夫頼次、七十余騎を率い義澄に加わると。
 

8月25日 乙巳
  大庭の三郎景親、武衛の前途を塞がんが為、軍兵を関に分ち方々の衢を固む。
  俣野の五郎景久、駿河の国の目代橘の遠茂が軍勢を相具し、武田・一條等の源氏を襲わんが為、
  甲斐の国に赴く。
  而るに昨日昏黒に及ぶの間、富士の北麓に宿すの処、景久並びに郎従帯する所の百余張の弓弦、
  鼠の為喰い切られをはんぬ。
  仍って思慮を失うの刻、安田の三郎義定・工藤庄司景光・同子息小三郎行光・市川別当行房、
  石橋に於いて合戦を遂げらるるの事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山に於いて
  景久等に相逢 う。
  各々轡を廻し矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑戦刻を移す。
  景久等弓弦を絶つに依って、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぐこと能わず。多く以てこれに中たる。
  安田已 下の家人等、また剱刃を免れず。然れども景久雌伏せしめ逐電すと。
  武衛筥根山に御坐すの際、行實が弟智蔵房良暹、故前の廷尉兼隆の祈祷師を以て、兄弟行實・永實等に
  背き、忽ち悪徒を聚め、武衛を襲い奉らんと欲す。
  永實この事を聞き、武衛と兄行實とに告げ申すの間、行實計らい申して云く、良暹の武勇に於いては、
  強ち怖るべきに非ずと雖も、謀り奉るの儀に及ばば、景親等定めてこれを伝え聞き、競い馳せ合力せんか。
  早く遁れしめ給うべしてえり。
  仍って山の案内者を召し具し、實平並びに永實等、筥根通を経て土肥郷に赴き給う。
  北條殿は事の由を源氏等に達せんが為、甲斐の国に向かわる。行實同宿の南光房を差してこれを送り奉る。
  相伴の僧山臥の巡路を経て、甲州に赴き給う。而るに武衛到着の所を見定めずんば、
  源氏等を催し具せんと欲すと雖も、彼以て許容せざるか。
  然れば猶御後を追い参上せしめ、御居所より更に御使いとして、顔向すべきの由、心中これを思案せしめ、
  立ち還りまた土肥の方を尋ね給う。南光は本山に赴くと。
 
  
8月26日 丙午
  武蔵の国畠山の次郎重忠、且つは平氏の重恩に報ぜんが為、且つは由比浦の会稽を雪がんが為、
  三浦の輩を襲わんと欲す。
  仍って当国の党々を相具し来会すべきの由、河越の太郎重頼に触れ遣わす。
  これ重頼は秩父家に於いて次男の流れたりと雖も、家督を相継ぎ、
  彼の党等を従うに依って、この儀に及ぶと。江戸の太郎重長同じくこれに與す。
  
  今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族悉く以て当所衣笠城に引き籠もり、各々陣を張る。
  東の木戸口(大手)は次郎義澄・十郎義連、西の木戸口は和田の太郎義盛・金田の大夫頼次、
  中の陣は長江の太郎義景・大多和の三郎義久等なり。
  辰の刻に及び、河越の太郎重頼・中山の次郎重實・江戸の太郎重長・金子・村山の輩已下数千騎攻め来たる。
  義澄等相戦うと雖も、昨(由比の戦い)今両日の合戦に力疲れ矢尽き、半更に臨み城を捨て逃げ去る。
  義明を相具せんと欲するに、義明云く、吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。
  盍ぞこれを喜ばざらんや。 保つ所すでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。
  今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。 汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。
  吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと。
  義澄以下涕泣度を失うと雖も、命に任せなまじいに以て離散しをはんぬ。
  また景親渋谷庄司重国が許に行き向かいて云く、佐々木の太郎定綱兄弟四人、武衛に属き平家を射奉り
  をはんぬ。その咎宥めるに足らず。
  然れば彼の身を尋ね出すの程、妻子等に於いては囚人たるべしてえり。
  重国答えて云く、件の輩は、年来芳約有るに依って、扶持を加えをはんぬ。
  而るに今旧好を重んじ源家に参る事、制禁を加うに拠無きか。
  重国貴殿の催しに就いて、外孫佐々木の五郎義清を相具し、石橋に向かうの処、その功を思わず、
  定綱已下の妻子を召し禁しむべきの由命を蒙る。今更本懐に非
  ざる所なりてえり。景親理に伏す。
  帰去するの後、夜に入り、定綱・盛綱・高綱等、筥根の深山を出るの処、醍醐の禅師全成に行き逢い、
  これを相伴い重国が渋谷の館に 到る。
  重国喜びながら、世上の聴こえを憚り、庫倉の内に招き、密々膳を羞し酒を勧む。
  この間次郎経高は、討ち取らるるかの由、重国これを問う。定綱等云く、誘引せしむの処、
  存念有りと称し、伴に来たらずてえり。重国云く、子息の儀を存じすでに年久し。
  去る比武衛に参るの間、重国一旦加制すと雖も、これを叙用せず。遂に参らしめをはんぬ。
  合戦敗績の今、重国が心中を恥じ来たらずかてえり。則ち郎従等を方々に遣わし、
  相尋ねしむと。重国が有情、聞く者感ぜざると云うこと莫しと。
 

8月27日 丁未 朝間小雨、申の刻以後、風雨殊に甚だし
  辰の刻、三浦の介義明(年八十九)、河越の太郎重頼・江戸の太郎重長等が為に討ち取らる。
  齢八旬余。人の扶持無きに依ってなり。
  義澄等は安房の国に赴く。北條殿・同四郎主・岡崎の四郎義實・近藤七国平等、土肥郷岩浦より乗船
  せしめ、また房州を指し纜を解く。
  而るに海上に於いて舟船を並べ、三浦の輩に相逢い、互いに心事の伊欝を述ぶると。
  この間景親数千騎を率い、三浦に攻め来たると雖も、義澄等渡海の後なり。仍って帰去すと。
  加藤五景員、並びに子息光員・景廉等、去る二十四日以後三箇日の間、筥根の深山に在り。
  各々粮絶魂疲・心神惘然たり。就中景員衰老の間、行歩進退谷まるなり。
  時に 両息に訓じて曰く、吾齢老たり。縦え愁眉を開くと雖も、延寿の計有るべからず。
  汝 等壮年の身を以て、徒に命を殞す莫れ。吾をこの山に棄て置き、源家を尋ね奉るべしてえり。
  然る間光員等周章し断腸すと雖も、老父を走湯山に送り(この山に於いて、景員出家を遂ぐと)、
  兄弟は甲斐の国に赴く。今夜亥の刻、伊豆の国府の祓土に到着するの処、
  土人等これを怪しみ、追奔するの間、光員・景廉共に以て分散す。互いに 行方を知らずと。
 

8月28日 戊申
  光員・景廉兄弟、駿河の国大岡牧に於いて各々相逢う。悲涙更に襟を湿す。
  然る後富 士山麓に引き籠もると。武衛は土肥眞名鶴崎より乗船し、安房の国の方に赴き給う。
  實平土肥の住人貞恒に仰せ、小舟を粧うと。この所より、土肥の彌太郎遠平を以て御使いと為し、
  御台所の御方に進せらる。別離以後の愁緒を申せらると。
 

8月29日 己酉
  武衛實平を相具し、扁舟に棹さし安房の国平北郡猟島に着かしめ給う。
  北條殿以下人々これを拝迎す。
  数日の欝念一時に散開すと。
 

*[平家物語]
  和田の小太郎申けるは、父も死ね、子孫も死ね。只今君を見奉れば、それに過たる悦はなし。
  今は本意を遂ん事疑ひ有べからず、君今は只侍共に国々をばわけ給へ、義盛には侍所別当をたふべし。
  上総権の守忠清が、平家より八ヶ国の侍別当を給てもてなされ候しが、浦山しく候しにとぞ申ける。
  兵衛佐殿安房の国安戸新八幡大菩薩に参詣して、千返の禮杯奉て、
  
    みなもとはおなじ流れぞいは清水せきあけ給へ雲のうへまで
  其夜の夢想に御宝殿より
    ちひろまでふかくもたのめいは清水只せきあげん雲のうへまで