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鎌 倉 十 橋  ( かまくら じっ きょう )
        鎌倉市内において、数ある橋のうち言い伝えのある橋、交通の要所の道路に架かる
          橋を十あげて 【 鎌 倉 十 橋 】   (かまくら じっきょう) と呼んでいる。

   『琵琶橋』(びわばし) ・ 『筋違橋』(すじかえばし)・『歌ノ橋』(うたのはし) ・ 『勝ノ橋』(かつのはし)
   『裁許橋』(さいきょばし)・『針磨橋』(はりすりばし)・『夷堂橋』(えびすどうばし)・『逆川橋』(さかがわばし)
   『乱 橋』(みだればし) ・『十王堂橋』(じゅうおうどうばし) である。



鎌 倉 十 橋 について


『琵琶橋』(びわ ばし)
   滑川支流佐助川に架かる橋で、鎌倉市大町・下馬四つ角の東南側(ガソリンスタンドの前)ある、
  現在は暗渠となつているために橋そのものは見る事は出来ない。
  浜の大鳥居のこの周辺を「琵琶小路」と呼ばれていたことから名付けられた。
  1955年(昭和30年)頃までは擬宝株のついた朱塗りの橋であった。
   その後、暗渠にかかるコンクリートの橋に変わり、
  1961年(平成3年)若宮大路の歩道拡張工事の際、御影石に改修され、
  更に翌年1962年(平成4年)3月に現在の5b幅の御影石の橋(橋の長さ6.3b)に再建された。
琵琶橋の橋標は、右岸の京浜急行バス車庫の脇に建立されている。
 

『筋替橋』(すじかえ ばし) ⇒鎌倉史跡導標・石碑の頁を参照
   鎌倉市雪ノ下・宝戒寺近くにあり、滑川支流西御門川の金沢街道(六浦道)に「く」の字に架かっていたので、
  筋違橋と言われた。   「須地賀江橋」とも云う。
  文永二年(1265年)『町免所七カ所のうた』で、町名も筋違橋と称した。
  現在は暗渠で石碑のみが往時を伝えている。


『歌ノ橋』(うたの はし)  ⇒鎌倉史跡導標・石碑の頁を参照
   鎌倉市浄明寺・滑川支流四つ石川に架かる橋である。
  橋の名前は、「鎌倉攬考」によると言う。
  「1213年(建保元年)謀反の罪で捕えられた渋川刑部六郎兼守という者が、幕府より処刑されることが決まった時、
  無実を晴らすため荏柄天神の神護を得ようと十歌の和歌を詠み荏柄天神社に奉納した。
  このことを伝え聞いた源 実朝将軍は奇特なものであるとして、その罪を許し、釈放した。
  死刑を免れた渋川兼守は荏柄天神社の参道近くに神徳を謝して此の橋を寄進した。
  このため『歌ノ橋』と呼ばれるようになった」と言う。

『勝ノ橋』(かつの はし)
   鎌倉市扇ケ谷・寿福寺の門前の滑川支流扇ケ谷おおぎがやつに架かる石橋である。
  往時(横須賀線開通以前)は、南に向かう今小路と雪ノ下に向かう武蔵小路の分岐点で、交通の激しい所だつた。
  寿福時の北隣にある英勝寺の開山の尼「お勝の局」が築いたことで、こう名付けられた。
  明治の末期までは、立派な橋が架かっていたと言うが、現在は庚申塔の横に石碑と敷石があるだけである。


『裁許橋』(さいきょ ばし)
   御成小学校近く、今小路を横断して流れる滑川支流佐助川に架かる橋である。
  この橋の名前の由来は二つある。
  一つ…訴訟を裁許(判決)する問注所が此の近くにあったことに由来する。
      罰法を此処の所で行ったことによる。
      (この橋を南に300m進むと昔の刑場址、六地蔵がある。)
  二つ…西行が鎌倉に来たとき、この橋の上で、頼朝に名前を問いただされるとか、また
     この橋の近くをよく通っていたいうことから別名「西行橋」と呼ばれ、それが変化したもの、と言われている。

『針磨橋』(はりすり ばし) ⇒鎌倉史跡導標・石碑の頁を参照
   鎌倉市極楽寺・極楽寺川本流に架けられた橋である。
   江の島鎌倉往還に架かる橋だが、今は欄干の片方がない。
   古くこの辺に針を作った人が住んでいたことに由来して名付けられた。
   針を研磨する業をもっていたのは、極楽寺の塔頭に住む「我入道」であると言う伝承から
   この橋を「我入道橋」と言う人もいる。
   極楽寺川の河口は稲村ガ崎でこの辺りの砂浜は今でも砂鉄できらきら光っている。

『夷堂橋』(えびすどう ばし) ⇒鎌倉史跡導標・石碑の頁を参照
   鎌倉市大町・小町と大町との境にある滑川本流夷堂川に架けられた橋である。
  古く、この近くに本覚寺の鎮守社の恵美須堂があったことに由来して名付けられた。
  この辺りの滑川は「夷堂川」ともいう。


『逆川橋』(さかがわ ばし 又は さかさがわ はし)
   大町四つ角より少し海岸寄りの滑川支流 逆川に架けられた橋である。
  川の流れは、名越方面から南に向けての流れて来て、ここで大きく屈曲して北向きに流は変わる、
  流れが逆行する様に見えるところから、この川を「逆川」といい、ちょうど逆行する辺りに架かる橋を「逆川橋」という。
  魚(いお)町橋の上流にある。


『乱 橋』(みだれ ばし)  ⇒鎌倉史跡導標・石碑の頁を参照
   鎌倉市乱橋材木座・水道道交差点からすこし海の方に行った妙長寺の南の滑川支流乱橋川に架かけられた
  材木座の北東から西に流れる滑川にそそいでいる小川にかかる長さ1bばかりの石橋である
  現在の町名になったいる。   吾妻鏡には「濫橋」と記述されている。
  この辺りは砂地だから一雨ごとに川筋が変わったことが想像される。
   「乱橋」と呼ばれるようになったのは、「新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入った時、北条幕府の防衛軍が
  この橋の辺りから乱れ始めた」ことによると云う伝承もあるが、「吾妻鏡」の記事はこの伝承より以前から
  「濫橋」と名のついていることを示している。
  江戸時代の元禄年間(1688〜1704)以前は、乱橋材木座と呼ばれこの橋が、乱橋村と材木座の中央に
  この橋がが架かっていたからであろう。
  石碑には「連理木(れんりぼく)があって名高い」とある連理の木は今はその面影はない。
  「一石橋」との名称もあ。

『十王堂橋』(じゅうおうどう ばし) 
   鎌倉市山ノ内・横須賀線・北鎌倉駅表口から鎌倉街道を150b右に進む、柏尾川支流小袋谷川に架かけ
  られた橋である。  現在はコンクリート製に改替された。
  古くは、円覚寺の西に(延寿堂、現在は墓地)があり、その前の橋が十王堂橋、以前は薬師堂前に「十王堂」
  があったと云う。…《鎌倉志》…現在はない。



鎌 倉 十 橋 の所在地

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