段  葛 (Dan-Kazura) の 石碑文の説明


☆ 段葛の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・


  「段葛」は色々な呼び名があるが、別の名は「置石」(おきいし)と言う。

 寿永元年(1182年) 3月、頼朝が政子夫人の安産を祈願して、鶴岡八幡宮の社頭から由比ケ浜の大鳥居
 の辺りまで構築したものである。

 この置石の土石は、北條時政を始め源家の諸将が運搬にあたった。

 明治の初年になって、二の鳥居から南側の部分の所を取り壊し、現在は存在しない。

          大正七年三月建之
                                         鎌 倉 町 青 年 会


【人物紹介】
北條時政 (ほうじょう ときまさ)      1138〜1215(保延4〜健保3)

『吾妻鏡』開巻早々の《治承4年4月27日の条》 『ここに上総介平直方朝臣五代北條四郎主は、当国の豪族にして、武衛をもって聟君となし、専ら無二の忠節を顕す』 とあり、
時政は頼朝の幕府草創の功臣であったが、三浦・畠山・千葉一族などのような大武士団といえる兵力を擁して いなかったこともあって、幕府の重要ポストについていない。 しかし、
時政が頼朝に賭けた目は時勢の変遷を察知することに俊敏な能力をもった人物であった。  即ち、長女政子を悪条件であったにもかかわらず流人の頼朝との誼を許したことは当時としては大きな賭けだつたに違い ない。(尤も、政子の情熱と執念、行動力によることも大きい。)
時政は又相当な権謀家であったといえる。
 頼朝が世を去り、その子頼家が跡を継ぐと、梶原景時が槍玉にあげられ、やがて頼家も、彼を援護した比企一族も 時政の謀略にかかって滅亡する。頼家謀殺は『修善寺物語』で知られる惨劇であり、三代将軍実朝を擁立し、
自ら鎌倉幕府初代執権となり幕府の実権を掌握、北條氏独裁体制の道を開いた。しかし野心家時政は後妻の牧の方と謀り、 実朝を亡き者にしょうとしたが、時政の陰謀に政子と義時が立ち向かい実朝暗殺に失敗、元久2年(1205)  時政は出家(法名は明盛)。牧の方とともに伊豆北条に隠退する。
 文治5年建立の願成就院の傍らに自らの塔婆を建て供養する。
 10年後《建保3年(1215)正月8日の条》『去る6日 戌の刻、入道遠江守従五位下平朝臣徒時政卒去、年78。
 日頃腫物を煩ひたもう』
と『吾妻鏡』にある。
【人物紹介】は 出展;「鎌倉御家人人名事典」(吾妻鏡を読む会)による