吾 妻 鏡  に お け る 『 段   葛 』 の 記  述



   「段葛」と言う文字は、『吾妻鏡』には所見されない。
 鎌倉時代初期には、「若宮大路」と呼ばれ 又は「若宮小路」・「車大路」とも呼称され、
 鎌倉の基幹道路としての機能を有していたと思われる。


段葛に関係する『吾妻鏡』における記述は・・・


《 養和2年(1182年)3月15日 乙酉 の条 》

    鶴岡の社頭より由比浦に至り、曲横を直して詣往道を造る。
   これ日来 御 素 願 を 為 す と 雖も、 自 然 日 を 渉 る。

   而るに 御台所 御懐孕 の 御祈りに依って、故にこの儀を始めらるるなり。
   武 衛 手づからこれを沙汰せしめ給う。 仍って 北 條 殿 以下、各々土石を運ばらる と。



《文説》
  寿永元年(1182年)3月15日
  頼朝は、御台所 (北条政子) の安産を祈願して、鶴岡の社頭より 由比の浦に至るまでの道を、頼朝が自ら監督して造る。
  頼朝、日来(ひごろ)の素願、つまり平城京の大内裏と朱雀大路のそれを擬し、大内裏の位置に武神の社殿・八幡宮を
  祀ってその社頭から特別の詣往の路、一般の人とは別の参道を造ることは、鎌倉の都市設営の最初からの願いであった、
  自然 日を過ごし、八幡宮をこの小林郷の北山に遷し、それから暫く本営を竣工し、爾来7ケ月を経た。
  おりしも、政子懐孕、安産祈願としてこの段葛を造ることは、鎌倉に京都より優る文化都市を建設することによって、
  その権威を表徴したい思いである。
  頼朝36歳、女の子 (大姫おおひめ) 一人しかいない。是非とも男の子( 頼家よりいえ )が欲しかった。
  養和2年(1182年)3月9日に政子、着帯の儀があり、のち6日後のことである。
《東の源氏池の中ノ島の弁天社の裏に 安産祈願した陰陽石(写真》 をご覧下さい。

  当時このあたりは湿地帯であり歩行がままならず、西から攻めてくる平家軍に対し、軍事的配配慮からも
  真っ直ぐな基幹道路が必要で、(横曲)曲がりくねった道を、中央に道を> 三分するように一段高く築造し、
  その両端には、伊豆産の石を積んで大路を真っ直ぐ整備し詣往の道を造る必要があった。

  今日、この詣往の道を「段葛」又は「置石」 と呼称されている。
  この築造に際して北条時政以下源家の諸将が土石の運搬を行っている。
   
   
【 段葛の呼び名 】について

  白井永二氏は「段葛考」《『鎌倉 第9号』》にて次のように論述しておられます。

  段葛の名称 を大凡二分するして考究しております。

  (1)   一つは、参詣道としての機能に基づいており、記録としては…
         …「千度小路」「千度壇」「七度小路」「七度行路」…など室町期に多く見られる。
  (2)  今一は、これは道の特殊な構造に基づいた称で…
         …「置石」「段葛」…など江戸期を経て現在猶呼ばれているものである。 
  これらの典拠はいずれも「新編相模風土記稿」に挙げられている。其れ以外の属目のものを参考に挙げている。
  〔殿中以下年中行事〕
  赤橋ノツメ、左右ノ置石ノ際ニ       −享徳3年(1383)ー
  〔鶴岡御造営日記〕
  作道左右共ニ掃除スベキ事        −天文13年(1544)年6月13日ー
  〔鎌倉公方御社参次第〕
  置石の道に八幡宮に向て幕をひき     −永禄元年(1560)4月8日ー
  など、「作道」「置石の道」と云う名も見られる。

  江戸期になると「新編鎌倉志」の流布に依るものと思えるが、「段葛」の外に「置路」と云う呼称が見える。
  其の中の一段高き処を段葛と名く。又は置路とも云うにりと云うのを、諸書は踏襲したようである。

  これも江戸期の記録で「新編相模風土記」に今俗に段葛(太牟可都良)と唱へりとなるのと、
  「鎌倉紀行」に往古来今称置路とあるのが注目される。

   段葛は正式の文書や記録に見られなかったが、「俗に」とあるので民間の詞として人の口に唱えられて
  いたものであることが理解される。』

   更にに白井氏によると
  「作道」に就いては、道が特に作られている現状に基づく呼び名で、具体的には「置石の道」であり
  「置石」は文字通り石の施工が特徴のあった道である。作り道を置いた感じに受取られたのであろう。
  「置路」を石を置いた道、即ち置石道の略語と言うより、その実況が道を置いたと見える形であった
  のだと思う。このように考えると、「置路」の名はそうした道路について云われた普通名詞の固定と
  理解しなければならない。

   「古事談」第二の臣節の章に
  『宇治殿令参内給之間 陽明門内(左近府前程他) 置道之頭有大袋、 乗燭之後也 人落歟云々』
  とある。京都の大内裏の東側にある陽明門は近衛の御門と呼ばれ、左近衛府と左兵衛府とで守られて
  いる。この間の道に置路があったのである。また陽明門の南隣にある待賢門の内側にも置路があった
  ことが記録にみえる。
   「中山内府政始記」の長寛2年(1164)3月27日の条に
  『上郷、径置路上、至干陽明門、宰相中将並予、径置路北、自櫛笥辻以東、昇置路、於左兵衛府門前程又下、
  於同門東程下尻、(中略)上郷下置路、斜至陽明門南戸間 云々』  と見えるが、
  上郷は陽明門に至までは置路の上を歩行し、下位者の前駆乃至扈従は、内裏より櫛笥辻までは置路に昇らず、
  置路の北側ほ歩行し、櫛笥辻から置路に昇ると云うことであろう。…略…
  京都での置路については、平安期以降鎌倉期の記録に現れていたように宮廷で注目を受ける機能と形体とを
  もっていた。…略…
  特定の尊貴のひとの通路であったものが、その代行者の通路からそれに準ずる人々の通り道と普遍化
  したものであるまいか。…略…
  頼朝が都作りに当たって京都の置路が脳裏にあり、神の通路若しくは頼朝自らの参詣道を考えていたのでは
  なかったろうか。頼朝は、右兵衛の佐として、幼時ではあったが、この置路を見ていたであろうし、
  関東武士の北条時政等の多くの者も亦衛門府には上番勤務して、この路の事情を知見していたものと思う。
  路の名は、記録に載ったのは新しいが、人の口には早くからのぼっていたものと考えてよいと思う。
   普通の路の中に一段高く置いて作られた道ーー置路は、その作る工程と構造とに於いて「置石」の
  印象が強かったに違いない。
   「だんかつら」の名は、「だんー壇・段ー」と「かつら」もしくは「かつら石」との複合して熟した語
  と考えられる』と白井氏は語られている。
   『要するに当時の特殊の形態として京にあったこの道が、現在鎌倉にのみの残され、中世の特異な道路
  の典型をみることが出きると云う点である。段葛は頼朝造営と云う歴史的事実と共に、道路史上貴重な資
  料として価値をゆうしている。』以上《「段葛考」》のなかで白井氏は述べられている。

   《『春日社記録』の中の「中臣祐定記」寛喜4年(1232)閏9月13日条に「壇カツラヲタタミ、壁石ヲ立」》
  という記事が見られる。
   《『鶴岡八幡宮社務職次第』には、「鶴岡社頭より由比浜に至る置路を造らるるなり』》
   ※『鶴岡八幡宮社務職次第』には「七度小路」・『快元記』には「七度行路」・『梅花無□蔵』には
    「千度小路」とある。

   「若宮大路」には、由比ケ浜の一の鳥居、小町口(現在鎌倉警察署北側)近くの二の鳥居鶴岡八幡宮社頭
  の三の鳥居と三ケ所に鳥居が建てられている。(それぞれ一の鳥居・にの鳥居・三の鳥居と呼ばれるように
  なったのは、近世になってからであろう)



 【 若宮大路周辺の故事 】

    《文治元年(1185)に平宗盛が鎌倉に送られてくるに「若宮大路を経て、横大路に至りしばらく興をとどめる」》
    とある。



  二の鳥居の右方、宇津宮稲荷社と傘松のある所は『宇津宮辻子幕府』があった《別項で掲載》
  三の鳥居の右手には、『若宮大路幕府』の址がある《別項で掲載》
  三の鳥居付近・大路の西側で大石氏住宅の裏手あたり「和田義盛の墓」があり、辺り一帯は義盛邸跡と云々。

  それぞれの鳥居の近くには、橋(社頭より上ノ下馬橋・中ノ下馬橋・下ノ下馬橋)がかけられていた。
  この他に「釘貫」あるいは「駒留」と称される施設が三箇所の下馬橋の近くにあったとされる。

  この施設については、「方形の広場的施設」と解釈されている(発掘調査報告書)

   三箇所の橋近くには若宮大路と直交する道路があり、鎌倉の交通的要所でもあった。



下馬橋及び橋辺の古事

「和田義盛の乱」


 【 若宮大路の景観 】


   現在、社頭から二の鳥居迄の約490メートルあり、
   幅は社頭の三の鳥居付近で2.9メートル、

   二の鳥居付近で5.1メートル

      と遠近法を取入れているので、南側から北側の八幡宮をみると実際よりは遠くに見える。


   一の鳥居の南は、松林、そして由比ケ浜・材木座の海岸、相模湾・太平洋の波濤が打ち寄せている
       大き海青垣山に囲まれて  わが鎌倉は実朝を生みつつ

                              佐々木信綱

   一の鳥居・・・由比ケ浜にある鳥居
       高さ3丈1尺5寸・柱周1丈2尺5寸・笠石の長さ4丈8尺・柱間隔3丈9尺

   現在の花崗石造りのこの鳥居は、寛文8年(1668)徳川氏の初頃に再興されたが、大正12年

  (1923)9月1日の関東大震災で崩壊し、昭和7年(1932)に建立されたものである。


    ? この段葛が鎌倉期に築造されたものか ?    … (大三輪龍彦氏の見解) …

  昭和52年(1977)の二の鳥居付近の発掘調査;-(元町建設の為の発掘調査)

  二の鳥居脇、元町ユニオン地点地下に道路幅の広い大路(60〜70m)が確かめられた。

  更に、地続きの同ビル(小町通りに面したビル)からは、中世の建築の遺構が見つかっている。

  →今の若宮大路だけが、中世遺構のように地下に埋没せず、地上に存在するのは疑問である。

   尚、同じ年の頃、三の鳥居前(鶴岡八幡宮入口前)の公共下水工事の際、地下を掘ったところ

  石を敷きしめた道路が発掘された。