鶴岡の社頭より由比浦に至り、曲横を直して詣往道を造る。 これ日来 御 素 願 を 為 す と 雖も、 自 然 日 を 渉 る。 而るに 御台所 御懐孕 の 御祈りに依って、故にこの儀を始めらるるなり。 武 衛 手づからこれを沙汰せしめ給う。 仍って 北 條 殿 以下、各々土石を運ばらる と。 |
段葛の名称 を大凡二分するして考究しております。 (1) 一つは、参詣道としての機能に基づいており、記録としては… (2) 今一は、これは道の特殊な構造に基づいた称で… これらの典拠はいずれも「新編相模風土記稿」に挙げられている。其れ以外の属目のものを参考に挙げている。 〔殿中以下年中行事〕 赤橋ノツメ、左右ノ置石ノ際ニ −享徳3年(1383)ー 〔鶴岡御造営日記〕 作道左右共ニ掃除スベキ事 −天文13年(1544)年6月13日ー 〔鎌倉公方御社参次第〕 置石の道に八幡宮に向て幕をひき −永禄元年(1560)4月8日ー など、「作道」「置石の道」と云う名も見られる。 江戸期になると「新編鎌倉志」の流布に依るものと思えるが、「段葛」の外に「置路」と云う呼称が見える。 其の中の一段高き処を段葛と名く。又は置路とも云うにりと云うのを、諸書は踏襲したようである。 これも江戸期の記録で「新編相模風土記」に今俗に段葛(太牟可都良)と唱へりとなるのと、 「鎌倉紀行」に往古来今称置路とあるのが注目される。 段葛は正式の文書や記録に見られなかったが、「俗に」とあるので民間の詞として人の口に唱えられて いたものであることが理解される。』 更にに白井氏によると 「作道」に就いては、道が特に作られている現状に基づく呼び名で、具体的には「置石の道」であり 「置石」は文字通り石の施工が特徴のあった道である。作り道を置いた感じに受取られたのであろう。 「置路」を石を置いた道、即ち置石道の略語と言うより、その実況が道を置いたと見える形であった のだと思う。このように考えると、「置路」の名はそうした道路について云われた普通名詞の固定と 理解しなければならない。 「古事談」第二の臣節の章に 『宇治殿令参内給之間 陽明門内(左近府前程他) 置道之頭有大袋、 乗燭之後也 人落歟云々』 とある。京都の大内裏の東側にある陽明門は近衛の御門と呼ばれ、左近衛府と左兵衛府とで守られて いる。この間の道に置路があったのである。また陽明門の南隣にある待賢門の内側にも置路があった ことが記録にみえる。 「中山内府政始記」の長寛2年(1164)3月27日の条に 『上郷、径置路上、至干陽明門、宰相中将並予、径置路北、自櫛笥辻以東、昇置路、於左兵衛府門前程又下、 於同門東程下尻、(中略)上郷下置路、斜至陽明門南戸間 云々』 と見えるが、 上郷は陽明門に至までは置路の上を歩行し、下位者の前駆乃至扈従は、内裏より櫛笥辻までは置路に昇らず、 置路の北側ほ歩行し、櫛笥辻から置路に昇ると云うことであろう。…略… 京都での置路については、平安期以降鎌倉期の記録に現れていたように宮廷で注目を受ける機能と形体とを もっていた。…略… 特定の尊貴のひとの通路であったものが、その代行者の通路からそれに準ずる人々の通り道と普遍化 したものであるまいか。…略… 頼朝が都作りに当たって京都の置路が脳裏にあり、神の通路若しくは頼朝自らの参詣道を考えていたのでは なかったろうか。頼朝は、右兵衛の佐として、幼時ではあったが、この置路を見ていたであろうし、 関東武士の北条時政等の多くの者も亦衛門府には上番勤務して、この路の事情を知見していたものと思う。 路の名は、記録に載ったのは新しいが、人の口には早くからのぼっていたものと考えてよいと思う。 普通の路の中に一段高く置いて作られた道ーー置路は、その作る工程と構造とに於いて「置石」の 印象が強かったに違いない。 「だんかつら」の名は、「だんー壇・段ー」と「かつら」もしくは「かつら石」との複合して熟した語 と考えられる』と白井氏は語られている。 『要するに当時の特殊の形態として京にあったこの道が、現在鎌倉にのみの残され、中世の特異な道路 の典型をみることが出きると云う点である。段葛は頼朝造営と云う歴史的事実と共に、道路史上貴重な資 料として価値をゆうしている。』以上《「段葛考」》のなかで白井氏は述べられている。 《『春日社記録』の中の「中臣祐定記」寛喜4年(1232)閏9月13日条に「壇カツラヲタタミ、壁石ヲ立」》 という記事が見られる。 《『鶴岡八幡宮社務職次第』には、「鶴岡社頭より由比浜に至る置路を造らるるなり』》 ※『鶴岡八幡宮社務職次第』には「七度小路」・『快元記』には「七度行路」・『梅花無□蔵』には 「千度小路」とある。 「若宮大路」には、由比ケ浜の一の鳥居、小町口(現在鎌倉警察署北側)近くの二の鳥居鶴岡八幡宮社頭 の三の鳥居と三ケ所に鳥居が建てられている。(それぞれ一の鳥居・にの鳥居・三の鳥居と呼ばれるように なったのは、近世になってからであろう) |