此の堂は、最初は頼朝の持仏を祀ってあった所であった。 頼朝が亡くなった後は、その霊をお祀りする堂となった。 建暦3年(1213年)5月 [「建保五年(1217年)五月」は誤り]、 「和田義盛」が乱を起こして、幕府の建物に火を 放った時、将軍実朝が難を避けるために隠れたのは此のお堂であった。 宝治元年(1247年)六月五日、三浦泰村が此の処にこもって北条氏の軍を迎え戦闘して、 刀折れ、矢尽きて、三浦一族郎党五百余人ともろともに自殺し、庭をことごとく血で朱殷(赤黒色)に 染めた処である。 大正十三年三月 建 鎌 倉 町 青 年 団 |
和田合戦 ・・・ 建暦3年(1213年)5月 ・・・ その時、実朝は 「法華堂」 に逃れた。
宝治合戦 ・・・ 宝治元年(1247年)6月5日 ・・・ この 「法華堂」 で三浦一族は自害し、滅亡した。
三浦一族の墓所は、頼朝法華堂の東方 山腹にある。
北條泰時の先妻矢部禅尼の子供である三浦氏佐原流は後に三浦家を再興している。