法 華 堂 跡 (holtuke-dou-ato)の石碑文の説明


☆ 法 華 堂 跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   此の堂は、最初は頼朝の持仏を祀ってあった所であった。
   頼朝が亡くなった後は、その霊をお祀りする堂となった。

   建暦3年(1213年)5月  [「建保五年(1217年)五月」は誤り]、  「和田義盛」が乱を起こして、幕府の建物に火を
   放った時、将軍実朝が難を避けるために隠れたのは此のお堂であった。

   宝治元年(1247年)六月五日、三浦泰村が此の処にこもって北条氏の軍を迎え戦闘して、
   刀折れ、矢尽きて、三浦一族郎党五百余人ともろともに自殺し、庭をことごとく血で朱殷しゅあん(赤黒色)に
   染めた処である。


          大正十三年三月 建

                                   鎌 倉 町 青 年 団




和田合戦  ・・・ 建暦3年(1213年)5月 ・・・  その時、実朝は 「法華堂」 に逃れた。

建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった相模国の豪族三浦氏一族・和田義盛の叛乱。

  石碑に刻まれた「建保五年(1217年)五月」は、「建暦3年(1213年)5月」の誤りである。

侍所別当の和田義盛は執権北條義時の度重なる挑発を受けて、横山党や同族の三浦義村と結んで

北条氏を打倒する為挙兵したが、土壇場で三浦義村は北條方に寝返ってしまう。


義盛ら和田一族は決起し150騎を三手に別けて、大倉御所の南門・義時邸・大江広元邸を襲撃した。

御所に火が放たれ、炎上する御所にいた実朝は辛うじて、「法華堂」へ脱出して難を逃れた。


戦いは日暮れまで続き和田勢は由比ケ浜へ退却した。翌3日朝、和田・横山勢は再び鎌倉に突入するも、

夕刻に義盛・その子義直は討ち取られ、朝比奈義秀らは、船6艘、兵500騎と共に安房へ逃れた。(吾妻鏡)

  ・また吾妻鏡にはその戦死者の中に義秀の名があるから逃亡に失敗したのかも知れない。

合戦後、固瀬川で和田一族234人が梟された。義盛の孫・朝盛は生き残り承久の乱で宮方として戦っている。


《「吾妻鏡」のページ》 をご覧下さい。



宝治合戦   ・・・ 宝治元年(1247年)6月5日 ・・・ この 「法華堂」 で三浦一族は自害し、滅亡した。

【T】 執権北條氏(並びにその外戚安達氏)によって 外様御家人最大の勢力の三浦一族とその与党が

    滅ぼされた。

    この事件は、比企氏、畠山氏、和田氏に続き一連の有力御家人の排斥事件の一つとして位置付

    けられている。


執権北條時頼とその祖父安達景盛一族は、三浦一族の勢力を嫉み、その強勢を恐れた。


平盛綱の和議により、三浦泰村は野心のないことを時頼に訴え、北條時頼もまた泰村を討つ意思のない誓書

まで与えたが、・・・


安達景盛は孫の泰盛をもって三浦泰村を攻めさせた。八幡宮の境内を駆け抜けて泰村の館を強襲した。


北條時頼は、北條実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北條時定らに三浦泰村の討伐を命じた。


三浦一族は、光村も80騎を率いて永福寺に籠る。明け方に泰村館に火がかけられ、泰村達は、館を出て

右大将家(源 頼朝)法華堂に向かった。


泰村は戦闘意欲なく、兄弟一緒に頼朝公の御影の前で死ぬべしと、光村法華堂に来る様命じた。

光村やむなく敵陣を突破して法華堂にくる。法華堂には三浦一族とその縁者、将軍派の御家人500余名

が集っていた。法華堂の門外で郎党達が防戦の間、・・・


西阿(毛利季光)が念仏を唱え、光村は「九条頼経が将軍の時、

頼経の父道家か、北條を倒し兄泰村殿を執権にすると約束していたのに兄泰村殿の躊躇により今の敗北あり、

後悔あまりある」と悔みつつ。光村は太刀を抜き、自分が誰であるか判らぬまでに顔を斬り付けて自害した。

泰村 は最期まで穏便で「汝の血で故頼朝公の御影を汚し奉る。光村ょ不忠至極であるぞ! 。」と諌めた。

また「我は義明以来四代の家督であり、北條殿の外戚として永年補佐して来た今、裏切言による誅滅の恥を

与えられ、その恨みと悲しみは深い、しかしすでに冥土に行く身で、もはや北條殿に恨みはない。」


三浦一族と与党500余名はこの法華堂で自刀して果てた。


上総国にいた泰村の妹婿 千葉秀胤は追討軍に破れ、一族と共に自害した。


《「吾妻鏡」のページ》 をご覧下さい。

     三浦一族の墓所は、頼朝法華堂の東方 山腹にある。

     北條泰時の先妻矢部禅尼の子供である三浦氏佐原流は後に三浦家を再興している。

【U】 宝治合戦により、幕府創設以来の豪族三浦氏の滅亡により、将軍側近勢力は一掃され、

    合議制の執権政治は終わりを告げた。

    この事件後、 北條家家督である得宗に権力が集中し、「得宗専制体制」が確立した。




宝 治 合 戦 時 の 三 浦 一 族 と 北 條 氏 ・ 安 達 氏 と の 相 関 略 系 図