太 平 寺 跡 (taihei-ji-ato)の石碑文の説明


☆ 太 平 寺 跡の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   「太 平 寺 跡」は比丘尼寺(比企一族の尼寺)とし伝えられて来た。
  頼朝が池の禅尼(平 清盛の継母)の旧恩に報いるために、禅尼の姪女の願いを聞き入れて
  その姪女を開山として此処に寺を建立したと言う。

  足利時代になつて、関東管領・足利基氏の子孫にあたる「清渓尼」と言う者が此の寺を中興した、
  天文年中に里見氏が鎌倉に攻め入った時、住職の尼岳尼を里見氏の本拠地・千葉県に略奪して
  いってしまったので、ついに寺は頽廃してしまった。

   今の「高松寺」は、寛永年中(1624〜1644年)に、紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺跡を
  改修したものである。


           昭和六年三月 建之
                                      鎌 倉 町 青 年 団



【この寺は源 頼朝が池禅尼の旧恩に報いるため、禅尼の姪の願いを聞きいれて建立したという伝説】

足利義満の時、尼寺の五山が置かれた。

円覚寺と深いつながりのある「太平寺」はその第一です。

太平寺は源 頼朝が、池ノ禅尼(平 清盛の母)への報恩のため建立したとていわれ、円覚寺二世 

大休正念が示寂した 正応2念(1289年)以前の創建と伝えられている。


 【鎌倉尼五山】

     第一位   太平寺     廃寺

     第ニ位   東慶寺

     第三位   国恩寺     廃寺

     第四位   護国寺     廃寺

     第五位   禅明寺     廃寺




【U】 高 松 寺こうしょうじ 


日蓮宗 西御門 小笠原谷

   西御門 来迎寺と其の手前ある八雲神社の間を通っていった奥、現在テニスコートの所にあった。 尼寺

   

寿延山 高松寺は 三浦定環の女、水野監物忠元の室、高松院日仙の子の水野淡路守重良が

   高松院追福の為に 寛永19年(1642年)8月に創建したとしている。     《「風土記稿」による》


開山住持は重良の室 (高松院の女=慧雲院日照)の女、日隆である。

   (日隆は、寛文12年(1673年)4月2日に33歳で逝。) 


俗妹の日祐が二世住持となつた。 日祐は大町の常栄寺も創建した。

   常栄寺の境内に分骨の墓があり、銘文が刻してある。

   二世日宗からは男僧が住持である。


関東大震災で全壊し、菅原通済氏の常盤山文庫発行『一観音』によれば、

   昭和6年(1931年)、高松寺が 宮城県栗原郡若松に移転することになったので、日祐の墓を常盤山に移したという。



   「高松寺」創建以前にこの地に在った「太平寺」については、

           ⇒  「太平寺の歴史」のページ 参照。