永福寺・発掘調査 永福寺 遺構変遷図
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《 出典 「発掘調査報告書・遺構編」平成12年 鎌倉市教育委員会 》 |
| 所在地 永福寺跡は、北鎌倉駅の北東約1.8km、鎌倉市二階堂字三堂他に所在し、 南側は大きく開けているが、北・東・西の三方は標高60m前後の山でかこまれている。 永福寺寺域は、滑川の支流・二階堂川の谷間に広がる平坦地 (東西約100m・南北約200m以上) を中心に北に延びる杉ケ谷と西ケ谷を含めた地域が寺域と推定されている。 |
国指定 史跡地 平成41年6月に平坦地を中心として、周囲の山を含めた約 86,000uが 国指定史跡に指定されまし た。 公有地化されているのは、この内の 約69%であります。 |
発 掘 調 査 発掘調査は、昭和58年から毎年継続的に行われ 平成19年度までに、約15,800uの調査を終えて います。 |
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《 出典 「発掘調査報告書・遺構編」平成12年 鎌倉市教育委員会 》 |
| 建 物 東向きの二階堂を中心に両脇として、左側(南)に 阿弥陀堂、右側(北)に 薬師堂を配し、三堂 ともに基壇は木製基壇であつた。更に両脇堂より前面の池に向かい翼廊が延び、中門を経て釣殿へ至 っていた。この木製基壇は永福寺の大きな特徴の一つである。 平泉、毛越寺内 円隆寺の金堂、廊に類例を見ることが出来るが、木材で組み上げられて基壇が縁の 下に隠れてしまうことから、石積みの壇正積基壇とは異なり亀腹基壇の縁を木材で化粧したと見ること が出来る。 三堂を並べてしまうことや、堂舎に付随する翼廊の形態は、浄土寺院の他に貴族の住宅に見られる 寝殿造りの建物(主殿・対屋、廊と中門、釣殿) の形態に関連性を見いだすことが出来る。このよう に創建期の永福寺は寺院でありながら、堂舎に翼廊・釣殿といった住宅建築を取り入れた独自性が感 じられるものである。 二階堂・・・五間四方(桁行64尺・19.39m)の堂。正面と側両面に階段がありました。 阿弥陀堂、薬師堂(両脇堂)・・・桁行五間、梁行四間(桁行55尺・梁行16.66m)の同じ大きさの堂です。 複廊・・・三堂を結ぶ複廊(廊下)は桁行40尺・12.12m、梁行22尺・6.67mの基壇を持たない建物です。 |
庭 園 境内の造成は、二階堂のほぼ中央から北側一帯は陸地と池底を削りだし、二階堂中央から南側一帯 は陸地、池底ともに土砂を積み上げる地業を行っている。苑池の形状は、北岸は尾根の先端部を削り 残し岩を並べた岬状に、また西ケ谷より北翼廊脇を抜け池に遣水を引き込んでいた。遣水は100分の 3勾配で設計されていた。西岸は一面砂利を敷き詰めた洲浜、東岸は岩肌を見せていたと推察される。 二階堂正面に長さおよそ35m、幅4.8mの橋が架けられた。南岸は池中に島が造られ、おそらく西岸 と同じように洲浜だつたと推察される。庭造りに京都の作庭家が関わっていることから、作庭記など との関連も注目できる。 |
備 考
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《 出典 「発掘調査報告書・遺構編」平成12年 鎌倉市教育委員会 》 |
| 建 物 寛元・宝治年間には、建物の解体修理といった大規模な修理が行われたと考えられる。特徴的であ った木製基壇は石積みの壇正積基壇に変更される。北翼廊の東西列の柱も礎石から掘立柱に変更され たが位置は変更されていない。頼朝創建時の規模・形状は踏襲されたものと考える |
庭 園 苑池の西岸・南岸は砂利を敷き詰めた洲浜、東岸は大規模な埋め立てが行われ洲浜となり、二階堂 正面に御拝施設とも考えられる建物が建てられた可能性がある。二階堂正面の橋の長さが、池の埋め 立てと共に長さ28mと短くされる。橋の南脇に新たに滝口(取水口)が造られる。堂の背後、排水溝 は幅を広げ改修される。 |
備 考
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《 出典 「発掘調査報告書・遺構編」平成12年 鎌倉市教育委員会 》 |
| 建 物 弘安三年の火災後、再建される。礎石に残る火災の痕跡、翼廊の礎石と礎石下に遺存する柱根の位 置等から中心が伽藍の規模・形状は保たれたと考える。ただし、瓦の出土量が減り大きさも小型化する ことから屋根は総瓦葺きではなく、棟瓦を用いた桧皮葺き等に変更されたと考える。 |
庭 園 北岸は岬状の景観を保つが、北翼廊脇の遣水流路が廊の下を潜るよう付け替えられる。東岸の埋め 立てが進み、併せて橋の長さは22mと更に短くなる。西岸・南岸の洲浜の形状に大きな変化はないが、 敷かれている砂利が小さくなる傾向と、岸辺に沿って景石が並べられるような傾向が見られる。 池中に堂内具類(仏像、器物、飾り金具等) の焼け残りが廃棄される。 |
備 考
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《 出典 「発掘調査報告書・遺構編」平成12年 鎌倉市教育委員会 》 |
| 建 物 延慶三年の火災後、再建される。複廊・翼廊位置で確認されたかわらけ溜りなどから、複廊・翼廊 は再建されずに三堂と釣殿・橋のみの再建と考える。 |
庭 園 下層は池底を貼り増すなど、苑池全体の埋め立てが進む。廊の下を潜っていた遣水の流路が付け替 えられ、再び北翼廊脇から池に注ぎ込まさせる。ただし流路は北翼廊北辺雨落ち溝を利用したと考える。 東岸に造られていた滝口は、多量の瓦片と鎌倉石切石が投げ込まれ埋め戻されている。二階堂正面 の橋の他、新たに阿弥陀堂正面にも橋が架けられる。この新しい橋は、橋脚を池底に埋め込むのでは なく、鎌倉石切石を池底に並べ、地覆材を寝かせこれを利用して橋を渡したと考える。 池全体がさらに縮小し、北側は陸地化・乾燥化が進んでいたと思われる。景石なども僅かに頭をの ぞかせているだけとなり、この時期に補充された景石は池の堆積土の上に置かれているだけである。 |
備 考
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《 出典 「発掘調査現地説明会資料」平成25.1.26日 鎌倉市教育委員会 》 |
《 出典 「発掘調査現地説明会資料」平成25.1.26日 鎌倉市教育委員会 》 |
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