大江広元(ooe-hiromoto)の略 年 譜

    大江広元 出 目

  1. 大江廣元 ; 久安4年〜嘉禄元年 (1148年〜1225年)  

  2. 父は式部少輔 大江維光これみつ、一説には(維光の妹が嫁いだ)参議藤原光能みつよし
      母は式部権少輔大江維順これのぶの娘。

    【大江匡房略系図】

    大江匡房まさふさ、⇒維順⇒維光⇒弘忠・匡範・廣元・秀厳⇒親廣・(長井姓)時廣・毛利季光。

    大江維光;平安後期の漢文学者、官人、学問科を賜る


    兄の親能は5歳年上だが、二人の子供を連れて母は子のいる中原廣季に後添いとして再婚する。
    二人の子は廣季とは養子縁組となり、中原親能、中原廣元と名乗る。

  3. 嘉応2年(1170年)、22歳の時、権少外記に任じてより、局務に携わり、大外記清原頼業のもとで、
    後白河院政の実態に通暁する。


  4. 元暦元年(1184年)6月、36歳の時、兄親能の進言で頼朝に招かれて、鎌倉に下向する。


  5.   ☆ 大江姓を称することが許されたのは…、建保4年(1216年)閏6月天皇に申請して賜る。
       中原廣元、69歳の時である。

    頼朝の補佐役としての活躍

  6. 元暦元年(1184年)10月、公文所が開設され、初代別当となる。
    吾妻鏡には、《吾妻鏡;元暦元年6月1日条》が初見である。


  7. 文治元年(1185年)11月、源 行家・源 義経 追討の院宣が下ると、守護地頭の設置を頼朝に進言する。
    翌年6月、諸国守護地頭の停止問題解決のために上洛する。


  8. 建久元年(1190年)11月、頼朝入洛の際には、二ケ月前に上洛して諸準備を進める。
    そのまま京にとどまり朝廷と鎌倉の関係安定に努めた。


  9. 建久2年(1191年)正月、公文所が改称・政所 の別当となる。


  10. 建久3年(1192年)2月、後白河法皇 重態の報にせつし、使節として上洛する。


  11. 北條氏に強力して活躍

  12. 頼朝が没した後、政子の信任を得て北条氏を中心とする執権政治確立の基礎固めに努めた。


  13.  〇 正治元年(1199年)4月、将軍頼家の直裁を止め、宿老十三人による合議制に参画する。
    廣元は、三善康信、中原親能、藤原行成らの文官派とともに、

    北條時政・義時を補佐して幕政を取りしきった。


     〇 同年10月、66名の御家人連署にる梶原景時の弾効事件
     〇 建仁3年(1203年)9月、比企能員と一族追討事件並びに頼家を伊豆に退けた事件
     〇 元久2年(1205年)6月、畠山重忠追討事件
     〇 元久2年(1205年)7月、時政出家、平賀朝雅追討事件を経て北條義時と結びついた。
     〇 建暦3年(1213年)5月、和田合戦の時には将軍実朝に従って法華堂に難をされた。
    廣元は、この時の功績よって、

    「武蔵国横山荘」、「相模国愛甲荘」を受領した。
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     〇 建保7年(1219年)正月、実朝暗殺事件後は、政子、義時を助けて幕府安泰を計った。
     〇 承久3年(1221年)5月、承久の乱には、京都方の來攻を防ごうという守戦論に対し、
        積極的に京都に進撃すべしと進言し、短時日の間に幕府方の勝利に導いた。
    廣元は、長男親廣(その長男佐房)は上皇方となったが、

    次男時廣、三男宗元、四男季光、一族郎党を幕府方に参陣させた。


     〇 貞応2年(1224年)6月、義時の死後、義時後室伊賀氏、その兄伊賀光宗らの宰相中将
        藤原実雅を将軍に、北條政村を執権にしようとしたが、この陰謀の事後処理に預った。

  14. 大江廣元は、因幡守・明法博士・左衛門大尉・兵庫頭・掃部頭・陸奥守を歴任し、
    正四位下まで昇った。


  15. 嘉禄元年(1225年)6月10日、西方浄土に向かって手を合わせながら坐ったまま
    七十八歳の多彩な人生を終わった。   火葬にして法華堂の傍らに埋葬する。     法名覚阿。

  16. 北條政子は、その翌月(嘉禄元年;1225年)7月11日、69歳の生涯を終えた。


    大江廣元の墓所

  17. 大江廣元の墓は 二箇所にある。


  18. 一つは、明王院脇から登り、天園ハイキングコースの小高い丘の上にある。

    もう一つは、頼朝の墓所から東へ70m先の大倉山山腹のやぐらにある。