大江広元邸址 (ooe-hiromoto-tei-ato)の石碑文の説明

☆ 大江広元邸の石碑文はこの様に語り伝えております。・・・

   大江氏は【奕世(えきせい)】代々学者の家系として有名である。
  かって、「大江国房(まさふさ)」は、源 義家に兵法を教授したことがある。

   「大江広元」は国房の曾孫にあたる。
  源 頼朝(義家の子孫)に招かれて鎌倉に来た。
  鎌倉においていつも【惟握(いあく)=たれ幕】幕府内にあって、機密会議に参画していた

   頼朝は、鎌倉幕府の草創に多大な功績があった大江広元に、「相模の国の毛利の荘」を与えた。
  そのこと故、広元の子孫は「毛利氏」を名乗っているのである。
  しかして、深い因縁があり、鎌倉幕府の創設に功績のある者の七百年後にその子孫が、幕府を倒し
  王政復古の【倡首(しょうしゅ)】先駆者となったのである。

   此の地は、その毛利氏の祖である、大江大膳大夫の邸宅のあった所である。

        大正十四年三月 建
                                     鎌 倉 町 青 年 団



 大江広元邸並びに墓所の所在地の考察




  五大堂敷地及びその南方地域に屋敷はあった;説


   広元が祀った稲荷社の位置は諸説多く、館跡も一応 明石橋の南とされているが、

   小丸俊雄氏はその土地が住居に不適であると説き、当図では、泉水橋近くの稲荷提附近とした。

   尚、広元の墓と伝える多層塔が、現在、胡桃谷の東山頂近くにある。建立時期は不詳。



     ↓下記地図参照              《 中世鎌倉 歴史地図 (阿部正道・安田三郎共著)による。》


    大倉幕府の南方地域に屋敷はあった;説
    大江広元邸跡の石碑建立場所に屋敷はあった;説
    大 江 広 元 墓 (頼朝法華堂東側広場)
       大 江 広 元 墓   (塔之峰)