日 蓮 聖 人 の 略 年 譜 

   〈 貞応元年〜建長三年 ( 1222〜1251 ) 〉

【 T 】 誕 生

  1. 1222年(貞応元年)2月16日、

  2. (1)東海道十五箇国の内十二に相当する安房の国、長狭ながさこおり 東條とうじょう郷片海ごうかたうみ海人あまの子として誕生。
             (生地は現在の千葉県鴨川市の東部、安房片海(現在この地名なし)の近辺ではないか)    『本尊問答集』より

    (2) 父は領主名半官 貫名次郎重忠、  母は御台所 梅菊御前である。


    日蓮自身の自分の出目についての述懐
    「日蓮は安房の国東条片海の石中いそなかの賤民が子也。威徳なく、有徳うとくのものにあらず。」 ……  (『善無畏三蔵鈔』(49歳))

    「日蓮は日本国東夷東条安房の国、海辺の 旃 陀 羅 せんだらが子也。」 …… …… …… …… …  (『佐渡御勘気鈔』(50歳))

    「日蓮今生には貧窮下賤びんぐ げせんの者と生れ、旃 陀 羅 せんだらが家より出たり。

         心こそすこし法華経を信ずる様なれども、身は人身にんしんに似て畜生也」 …… …… …… …  (『佐渡御書』(51歳))

    「日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当る安房の国安房の国長狭の郡東條の郷片海の海が子也」 ……
    旃陀羅せんだらとは、梵語チャンダーラ(candala)の音写語で、屠殺者なとどと訳され、インドでは最低階級の奴隷にも

     入らないアウトカースト(階級外)の賤民をさす。その賤民が町を行くときは、鈴を振り、割れ竹をならして、人々が触れて

     穢れないように歩いた。  アンタッチャブル(不可触賤民)である。

     インドでは、階級の別が厳しく、最高階級のバラモン(婆羅門)は、その純血性を守ろうと努め、異種の階級間の結婚を禁止した。

     特に、最低階級のシュードラ(奴隷)出身の男性とバラモン貴族出身の女性との間に出来た子供は、階級外に落とされた。

     これが即ちチャンダーラ(旃陀羅)ある。



    日蓮は、鎌倉新仏教の祖師のなかでただ一人の東国出身者である。

  3. 1233年(天福元年)、(12歳)

  4. 日蓮(幼名・善日麿でんにちまろは、十二歳で天台宗の清澄寺せいちょうざんへ登って道善房どうぜんぼうの門下になった。

  5. 1237年(嘉禎3年)、(16歳)

  6. 髪を剃って出家、法名を是生房蓮長ぜしょうぼうれんちょうと名乗った。  翌年、清澄山を後に遊学の途についた。

  7. 1239年(延応元年)、(18歳)

  8. 鎌倉に出て、浄土宗・禅宗を研究。  仁治3年(1242)、清澄山に帰る。

  9. 1251年(建長3年)、(30歳)

  10. 之以後、32歳に至るまでの20余年間、鎌倉・京都・比叡山・園城寺・高野山・天王寺等をまわって修業を
    つとめ 故郷に帰るが、法華経の信仰を強く主張したため念仏者との間に対立が生じ、鎌倉に逃れる。

    (一般状況)
    治承4年(1222)日蓮誕生時の高僧の動向

          法然が「専修念仏せんじゆねんぶつ」を唱えはじめてから48年目、法然没後10年目。

          臨済宗の栄西ようさいが建仁を開いてから20年目、栄西没後7年目。

          親鸞、50歳…2年後(124)・『教行信証』執筆。

          道元、23歳…明全たちと入宋。

          真言律宗の叡尊は21歳、その弟子忍性(極楽寺良観)はまだ6歳であった。


    「承久の乱」…後鳥羽・土御門・順徳、三上皇配流。

          南北六波羅探題が正式に設けられた。




   〈 建長五年〜文応元三年 ( 1253〜1260 ) 〉

【 U 】 日蓮宗を開宗する。… 『立正安国論』を提出… 草庵・夜襲を受ける。

  1. (1)1253年4月28日、(日蓮 32歳) 清澄寺で初めて「南無妙法蓮華経」をとなえ立教開宗した。

  2.     同  年      鎌倉に入り、名声の山中に小庵を結び、辻説法による布教活動を始める。

          
    《「日蓮上人草庵跡 碑』ページ》
    を併せご覧下さい。

  3. (2)1260年7月16日、(日蓮 39歳) 得宗被官宿屋光則(最信)を通じて執権・北條時頼に

  4.                         『 立 正 安 国 論 』 を提出し諌言を試みる。

  5. (3)1260年8月27日、(日蓮 39歳) 浄土宗の信者に草庵を夜襲され、難を下総にさける。



    (一般状況)
       日蓮が辻説法を鎌倉で始めた頃、鎌倉は大地震や大洪水が相次いで起こり、疫病が蔓延し

           田畑は旱魃に見舞われ、世はまさに地獄草子・飢餓草子のたぐいを見る重いであった。

         
       兀庵普寧、来日し建長寺に住す。

       フビライ…蒙古第五代の帝位につく。




   〈 弘安元年〜文永七年 ( 1261〜1270 ) 〉

【 V 】 伊 豆 流 罪

  1. (1)1261年5月12日、(日蓮 40歳) 捕らえられて 伊豆流罪。

  2. (2)1263年2月22日、(日蓮 42歳) 伊豆流罪を放免。


  3. 小松原法難

  4. 1264年11月11日、(日蓮 43歳) 母の病が重くなったので、帰郷。小松原で 東條景信に襲われる。

    日蓮 眉間に傷を負った。 門下一名は討死する。


    (一般状況)
       1261年、北條重時 没 (64歳)。

       1262年、親鸞、京都にて 没 (90歳)、 叡尊 鎌倉に来る。

       1263年、北條時頼 没 (37歳)。



   〈 文永八年     ( 1271 ) 〉

【 W 】 雨 乞 の 故 事   ( 良 観 忍 性 と 対 決 )

  1. (1)1271年7月12日、(日蓮 50歳) 

  2. ひでりに対する祈雨の事をはさんで良 観 忍 性と対決する。

      
《「日蓮上人祈雨旧跡 碑』ページ》
を併せご覧下さい。


    (一般状況)
       1268年、蒙古の国書到来。 翌 1269年、再度 蒙古の国書到来。

       1271年、みたび 蒙古の国書到来、  朝廷、伊勢神宮に勅使を贈り、蒙古退治を祈る。



   〈 文永八年〜文永十年 ( 1271〜1273 ) 〉

【 X 】  佐 渡 流 罪  

  1. 1271年9月12日、(日蓮 50歳) 佐渡流罪と決定。

  2. 1271年9月13日未明、一時預かりの 相模依智 へ送られる。


  3. 滝口たつのくち法難」、(日蓮 50歳) 滝口で斬首にあいかける。


  4. 日蓮といえば蒙古襲来・蒙古襲来といえば日蓮、両者は一体的に認識されている。
    1271年の「竜口法難」(日蓮 50歳)は蒙古問題を直接契機にしており、

    1279年の「熱原法難」(日蓮 58歳)は蒙古襲来下の祈祷体制のなかの法難である。


    1271年9月13日、未明、一時預かりの 相模依智 へ送られる。

    1271年10月3日、投獄された5人の門下へ…『五人土籠御書』、 9日、日朗へ…『土籠御書』。

    1271年10月9日、依智を立ち、 21日、越後・寺泊に着く、…『寺泊御書』作。


  5. 1271年10月28日、佐渡に着く。   11月1日、塚原の草堂に住む。

  6. 1272年3月、(日蓮 51歳) …『佐渡御書』作成。 4月一谷に移る。


  7. (2)1274年2月14日、(日蓮 53歳) 放免状が出される


  8. 本覚寺・「鎮守御隠れの松」 … 佐渡から生還した日蓮は本覚寺の夷堂に一時身を寄せたと言われている。

    一人の老人が、日蓮を夷堂に案内した後、境内の大きな松で消えてしまった。驚いた村人は「夷様の化身に違いない」

    とこの松を「鎮守御隠れの松」と云う。


    (一般状況)
       1272年2月、北條時輔の乱。

       1273年頃 、このころ『吾妻鏡』前半部成る。

       1274年  、一遍、 時宗を開く。

       1274年10月5日、「文永の役」

                      …蒙古・高麗連合軍 2万5千が壱岐・対馬を侵し、ついで博多附近に上陸。台風で退散す。



   〈 文永十一年〜弘安四年 ( 1274〜1281 ) 〉

【 Y 】  身 延 山 に 退 隠 生 活 に は い る。  

  1. 1274年5月12日、(日蓮 53歳) 鎌倉を立ち、 17日、身延山に着き、退隠生活にはいる。

  2. 1279年、      (日蓮 58歳) 熱原あつはら法難」…

  3. 8月、駿河方面に布教していた日興・日秀等に迫害の手が伸び弥四郎打ち首手が伸び弥四郎打ち首。
    9月、熱原の農民信者 20名 逮捕される。   日蓮、「弁明書」や「激励書」を作る。
    10月、神四郎等三名斬罪、 十七名は禁固される。

    (一般状況)
       1275年 (日蓮 54歳) 蒙古の使者を瀧口で斬る。

       1276年 (日蓮 55歳) 幕府、筑前の海岸に石塁を築き蒙古襲来に備える。

       1278年 (日蓮 57歳) 蘭渓道隆 没 (66歳)。

       1279年 (日蓮 58歳) 無学祖元、 北條時宗の招きで来日、建長寺に住す。

       1279年 (日蓮 58歳) 蒙古の使者、筑紫に来るが、再び斬る。



   〈 弘安五年 ( 1282 ) 〉

【 Z 】  池上宗伸宅 ( 池上本門寺 ) にて没す。 (日蓮 61歳) 

  1. 1282年 9月 8日、(日蓮 61歳) 常陸の湯にて身を養うため身延を下山する。

  2. 1282年 9月18日、 武蔵千束郷池上宗伸宅 ( 池上本門寺 )で休息する。

  3. 1282年10月 8日、 臨終せまるを感じ、本弟子六老僧を定め、後事を託す。

  4. 1282年10月13日辰の刻(午前8時)、 池上宗伸宅において入滅す。

  5. 1282年10月14日子の刻(午後12時)、 葬送の儀。15日荼毘に附す。

  6. 1282年10月21日、 遺骨 池上を立ち、身延に向かう。   

  7. 1282年10月25日、 身延に埋葬する。   


    (一般状況)
       1282年、北條時宗 無学祖元を開山として、「円覚寺」を建立。

       1282年6月、「弘安の役」

                 蒙古・中国・高麗の連合軍(東路軍)4万と旧南宋の江南軍10万とが襲来、対馬・壱岐・長門を侵す。

                 博多侵入を試みるが、日本軍の防戦と台風のため敗退する。



【 [ 】  諡号を賜る。  

  1. 1358年 ( 延文 3年 ) 厳光後天皇、日蓮大菩薩 の号を賜わる。

  2. 1720年 ( 享保 5年 ) 霊元法皇、日蓮大菩薩 の宸翰 を賜わる。

  3. 1922年 ( 大正11年 ) 立正大師の諡号を賜わる。